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普天間第二小「窓落下」1年「変わらない」理由を「歴史」に見る

アメリカ軍ヘリの窓が、小学校のグラウンドに落下した事故。普天間基地の危険性を改めて突き付けた事故から1年。現場となった普天間第二小は今。

児童の作文「きのう、へりのまどがおちてきて、こわかったです。もしわたしたちのきょうしつにおちてきたらとおもいました」

事故から1年となった普天間第二小学校ではきょう、全校集会が開かれ、児童らが事故後の心境を発表しました。ちょうど1年前。重さおよそ8kgのアメリカ軍ヘリの窓が、体育の授業中だった4年生のすぐそばに落ちました。

1年前 保護者 男性 「やっぱり怒りしかないですよね」児童の祖母「人命無視もいいところですよ」

しかし事故機の同型機は、わずか6日後に飛行再開。一方、普天間第二小は2カ月にわたり運動場の閉鎖を余儀なくされました。学校生活の楽しみを奪われた児童らの負担は、運動場の使用が再開された後も続きました。落下事故に備えた避難訓練です。

普天間第二小「窓落下」1年「変わらない」理由を「歴史」に見る

先生「逃げてください!」「合図とともに、生徒たちが校舎に向かって走りだしました」事故後、児童らが避難した回数は693回。監視態勢を解除する代わりに、運動場には緊急避難用の建物が設置されましたが、児童の命を守るには心細いものです。一方、学校周辺の上空飛行が繰り返される現状は、変わっていません。

校長「あれ、上に見えるでしょ?多分、向こう(米軍)いったら、「いや向こう側(学校上空ではない)です」と言うよ。

ここからは久田記者とお伝えします。児童が軍用機から避難する様子、改めて見ても異様ですね。

久田「はい、こちらご覧ください。普天間第二小によりますと、監視員の指示で避難していた期間は678回も避難しましたが、自主避難に切り替わってからは、15回と激減しています。」

余程危険を感じた場合だけ避難するようになったとみられますが、児童らが危険に慣らされているだけで、危険な環境自体は事故から1年経っても、変わっていないと思います。

改めてこの普天間第二小の位置を確認します。滑走路の延長線上のほぼ真下です。1980年代以降、移転を模索したこともあった普天間第二小。なぜ移転は実現しなかったのか。取材しました。

普天間第二小「窓落下」1年「変わらない」理由を「歴史」に見る

校長「なぜ基地のそばか。普天間三区から新城、喜友名を、普天間小学校から分けないといけないということで、この近くに学校がないとだめだったんです」

強制接収の歴史を持つ宜野湾市。区画整理でできた保留地などを束ねた小さな土地で、1969年に完成したのが、今の普天間第二小の敷地です。その後普天間基地では県外の部隊の移駐など機能の強化が進み、普天間第二小は設立から10年余りで、移転を模索します。

私たちは、当時を知る人を取材しました。宜野湾市の、比嘉盛光(ひが・せいこう)元市長です。比嘉さんは、教育委員会や、返還後の跡地利用を担当する企画部の幹部として移転計画に深く関わりました。

比嘉盛光元市長「これ突き当たって右側が第二小ですので、この真っ直ぐいったところの突き当りを起点にして、この一帯に8000坪確保して移転しようということで進めたと記憶しております」

案内されたのは、アメリカ軍の住宅が立ち並んでいた、キャンプ瑞慶覧・西普天間住宅地区。普天間第二小の子どもが通える範囲に移転するには、この土地の部分返還を求めるしかなく、当時比嘉さんは、地主を集めて説明にあたりました。

普天間第二小「窓落下」1年「変わらない」理由を「歴史」に見る

記者「うまくいかなかったのはどうしてなんでしょうか?」比嘉盛光元市長「それはやはり用地取得費に関わる文部省(当時)の補助が得られなかったということが大きなネックになっていますね。」

当時アメリカ軍は、部分返還の条件を提示していました。1987年の国会でのやり取りに、こんな記録が残っています。

玉城衆議院議員(当時)「米軍はキャンプ瑞慶覧を、四万平米ですか、開放しますね。…三十億といったら宜野湾市の年間の予算と大体匹敵するということで、とてもこれは市の力ではできない。…でそういう敷地を取得する場合に、どういう補助制度があるのか。」

塚越沖縄開発庁振興局長(当時)「この普天間第二小学校の場合には、…用地費の補助が難しいという状況にございます。」

「大規模校の分離」や「強制接収の代替地取得」といった条件からこぼれた普天間第二小の移転計画は、国の補助を受けることができませんでした。また、計画が難航するうちに土地の値段も高騰。

比嘉盛光元市長「一般財源が豊富ならば、50億確保して可能なんだけども、当時の財政規模では一般財源で50億円なんて補填する、まったく財政力がなかったと。」

その後、移転計画は、時とともに忘れられていきましたが、比嘉さんは、新校舎が完成した翌年の市長就任後も、普天間基地の県内移設問題に直面し、深い苦悩を抱えました。

普天間第二小「窓落下」1年「変わらない」理由を「歴史」に見る

校長「基地のそばで、今のところですよ、生きていく限りは、危険を回避する、あるいは察知する能力、力というのも常に、育てていかないといけないよ、というのを(児童に)伝えたいと思っています。」

自分で自分の命を守らなければならない普天間第二小。子どもが犠牲になる構図を正せないまま、半世紀の年月が過ぎました。

こうしたいきさつがあって、西普天間住宅地区への移転は実現しなかったわけですが、今ではそこには、琉大医学部などの移転が決まっていて、政府は基地負担軽減の「実績」として強調しています。

キャスター「何か腑に落ちませんね。以上久田記者でした。」