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シリーズ「非戦の誓い」です。沖縄の歩みを記録し続けている写真家がいます。彼が沖縄をとり続ける覚悟とは。

先月、宜野湾市の佐喜真美術館で開かれた写真展、沖縄の縮図「伊江島の記録と記憶」。沖縄がアメリカ施政権下に置かれていた1956年に、軍用地の拡張に伴う土地の強制接収に抗った住民たちの闘い。『島ぐるみ土地闘争』をテーマにしています。撮影したのは闘いの先頭に立った阿波根昌鴻さんです。

写真家・比嘉豊光さん「証拠写真ということですよね。彼は証拠として、ここに落下傘が落ちた場所を撮っていたりとか。結局ここからここは軍用地だけどここはそうでなかった、そういう形の証拠写真ということで撮っていたと。」

こう語るのは、写真家の比嘉豊光さん。琉球大学の学生だった20歳の頃から、復帰闘争など戦後の沖縄の歩みを記録してきました。

非戦の誓い カメラマンが見た沖縄の記憶と記録

比嘉豊光さん「この戦世の記録記憶が改めて阿波根さんある意味、伊江島の人々まして沖縄の人々もそうですけど、それがあるからこそ沖縄の今の不浄理の基地の闘いもあるだろうし、そういう意味では原点の写真。」

写真展では阿波根さんが撮り続けた写真80点と、比嘉さんの作品50点が紹介されました。

聞き取りVTR「サンタ壕に入り救護班をすることになったが、15歳で訳も分からなくなった。」

この映像は比嘉さんが伊江島のお年寄りに沖縄戦の状況を聞き取りした「しまくとぅばで語る戦世」。

比嘉豊光さん「言葉の力というか言語って何だろうと、今後若い人達が僕らのやってきたことを色々調べて、追跡するほど面白いものが出てくる可能性がある。」

伊江島をはじめ、県内各地1000人から沖縄戦の聞き取りを行いました。

比嘉豊光さん「75年前に悲惨で体験して、死んでも当然だという戦世を味わってきてるんだよ、みんな。その時の極限の状況という、あの時に戻さないといけない」

なぜ比嘉さんが沖縄戦の体験を映像で残すのか。そこにはある思いがありました。

非戦の誓い カメラマンが見た沖縄の記憶と記録

写真家の比嘉豊光さん。沖縄戦を記録し始めたのは一つの史誌がきっかけと話します。

比嘉豊光さん「日本語の表現としまくとぅばの表現違うよねということを、僕はこの字誌で学んだ。」

沖縄の人たちにとって生活の一部であるしまくぅば方言。しまくぅばには力強さを感じると話します。

比嘉豊光さん「75年前に戻す作業は、あの現場の匂いとかあの現場の空気とかあの現場にどう戻せるかなのよね。当時の現場に戻されるわけだから、『あがよー』とか、『あたりめーやさ』その言葉でしか(聞き取り)ができない。」

しまくぅばは地域によって言葉のアクセントやニュアンスが違います。同じ地域の者同士で聞き取りすれば会話がスムーズになり、過去の記憶も鮮明に蘇るといいます。

比嘉豊光さん「同じ島人が同じ島言葉で話せばもっと良くなった。島人同士の会話は寄り現場に戻して、忘れていたことをまた教えてくれる。あれよりか私が上手だとか、あの人よりこの人あの人呼ぼうねという感じで、そういうことが出来てきた。」

比嘉さんは、しまくぅばを使うことで聞き取りが上手くいったと話します。

比嘉豊光さん「島言葉で戦争の記録を語らせて、島の言葉というか、人達の戦争の記憶に関われた。」

20歳から写真をはじめ、アメリカ軍の支配下に置かれた故郷が今も続く辺野古新基地を巡る闘いを撮り続けてる比嘉さん。平和を発信する強い責任を感じています。

比嘉豊光さん「文化人は口で言う前に物を作って、表現行為をしないと何の意味もないからねと思う。」

沖縄で生まれたアーティストだからこそ、背負われなければならない伝えていく責任。比嘉さんは次のように話します

比嘉豊光さん「人間との関係性が成り立つ状況が僕の写真だと気が付いた。平和を発信できる地域、場所というのはほとんどないと思って、僕らはもっと沖縄から平和を発信する作業は担わないといけないと思って、僕自身はしまくとぅばで語る戦世という表現行為でみんなに見せながら伝える作業というのは、今もやっていますが、それは継続してやらないといけないと思って。」

非戦の誓い カメラマンが見た沖縄の記憶と記録