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シリーズでお伝えしている慰霊の日リポートです。戦後74年。沖縄戦を体験した世代が減少していく中、悲惨な記憶を後世に残すために活動するカメラマンがいます。レンズ越しに見た沖縄戦とは。

「しまくとぅばで語る戦世(いくさゆ)」沖縄戦体験者の当時の記憶を「しまくとぅば」で語ったものです。

島くとぅばっていうのは村の言葉なんだよね。

比嘉豊光さん「島くとぅばっていうのは村の言葉なんだよね。ぼくらのものと隣の村と違うよっていうのが結構あるんだよね、それで撮影始めた。」

証言を集め撮影しているのは、報道カメラマンの比嘉豊光さん。読谷村楚辺で生まれ、これまでコザ暴動や全軍労闘争など激動の沖縄を捕えてきました。

22年前、出身地の地域誌を作成したことがキッカケで、県内北部から離島まで、戦争体験を記録する活動を始め、これまでに証言を聞いた人は、1000人を超えました。

比嘉さんがこだわりは”しまくとぅば”で語ってもらうこと。比嘉豊光さん「記憶というのは、戻せば戻すほど、言葉の壁を超えないと記憶にはならないのよ。その現場(戦中)に(記憶を)戻すっていうのは、日本語じゃないのよ、「しまくとぅば」なのよ。」

糸満市大里公民館、先週土曜日。この日は、14年前に糸満市の大里公民館で聞いた証言集の上映の日。比嘉豊光さんさんが9人のうち、どの方がご存命かを確認すると。

玉城さん「うちの父なんですけど、先月亡くなりましたよ、(上映会の)話してたんですけどね」比嘉豊光さん「おもしろいよ、この人の証言や!」証言した9人のうち、4人はすでに亡くなっていましたが、こんな嬉しい出会いもありました。

比嘉豊光さん「きょう、(証言集の)この人たち来てるかな~と思って。」山城信子さん「わたしは山城信子です。」比嘉豊光さん「あ!本当!おばあ!」山城信子さん「だれね~?」比嘉豊光さん「おれが、撮ったんですよ~」

山城信子さん(90歳)証言者の一人です。おしゃべり好きな90歳のおばあちゃんです。

でも、忘れないさ~

比嘉豊光さん「うんじゅ、日本語、島口ししんしょうりよ(島の言葉も使ってくださいね~)本当は」山城信子さん「だからね、ほんとは、島口がね。」比嘉豊光さん「なーなーなとん?(なーなーになってる?)(島言葉がくずれてきてるね~)なーねーになとん?(島言葉なくなってきてる?)」山城信子さん「こどもたちきても、島口しない。」比嘉豊光さん「うちなーの島口はねーんないびんどー(島言葉なくなりますよ~)山城信子さん「でも、忘れないさ~。」

続々と、人が集まってきました。その中には、証言者の一人、御年100歳の方の姿も。信子さんは、当時16歳。女学校に通っていました。

終了後の来場された方の感想。女性「その方のご家族の遺産というか宝物にもなるし、この映像自体がもちろん県民の宝でもある。」おばあちゃん「本当に、涙が出るだけ。」

本当に、涙が出るだけ。

玉城はつえさん「父が亡くなったのが先月、まだ49日もなってないので、まだ父が生きているような感じ。映像で残すこと、またそれを方言で残すっていうことに、すごい意味があると思いますね。」

山城信子さん「きょうは、涙なくしては見られなかった。もう、思い出して。」戦争の記憶はハッキリと残ってるんですか?山城信子さん「残ってますよ~忘れることないよ。」

比嘉豊光さん「(証言者が)いるだけで、そりゃあもう撮った意味があるし、価値があるし、そうでなくても、(証言者が)いなくても、みなさん沢山きて、家族(遺族)が来てくれたりとか、むしろ、こういうことができる今は、僕らなんかも幸せですよね。」

撮影した地域での、証言集上映を大切にしている比嘉さん。取材を通して見えたのは、沖縄戦の爪痕が今も当たり前に存在していることだと語ります。

比嘉豊光さん「沖縄で表現する人は、当然、基地問題もあるし、沖縄戦もあるし、当たり前に基地があって、当たり前にそれは日常の風景で、それが写真の表現にある。」「あらゆる状況で、沖縄を撮って、沖縄に還すという、結局、現場に還すっていうことをしないと、それは現場にいて(上映を見て)、必ず、何かを感じる人が出ると思ってるんです、思ってるからやれる。」

必ず、何かを感じる人が出ると思ってるんです

沖縄で比嘉さんが受け継ぐ ”しまくとぅば” で語られた沖縄戦の記憶は次世代を生きるわたしたちへのメッセージです。