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自殺などに悩む人たちの声を聞き自殺を防ごうという活動に長年携わっている女性がいます。活動のきっかけとなった「沖縄戦」、彼女は70年前にどんな経験をしたのでしょうか…。

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大西正子さん「なくなってしまったものは、元には戻ってきませんよ。戦争というのはですね、私を含めてですけど、人の体もいっぱい傷つけて、人の心も傷つけるのが戦争なんです」

沖縄戦での経験を修学旅行生に話す大西正子さん。戦後70年、今もなお、心に残る思いを語ります。

大西正子さん「あの(平和祈念)資料館から1歩踏み出せば、平和の礎だったでしょ、でも、そこには行っていないんですよ。もし私があの平和の礎に行って家族13人の名前を見つけたときにね、私は1人だけ生き残って良かったのかっていう、心の呵責があるんです。」

男子生徒「戦争は人の心を傷つけるという言葉がとても心に残っています。」

女子生徒「今の私が想像しようとしても想像できないくらい悲惨なものだなと思ったし…その当時の大西さんはとても辛いなと思いました。」

女子生徒「生きていて良かったのかと思われたりしているので、(戦争を)2度としてはいけないなと思いました。」

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沖縄戦当時、那覇市の大道に家族7人で暮らしていた大西さん。しかし、父や兄・姉が終戦の直前に戦死するなど家族5人が犠牲になりました。さらに、姉の家族8人も戦争で亡くなり、一家13人が犠牲に…、生き残ったのは3人、母と姪、そして大西さんでした。

戦争の始まりとともに避難を始めた大西さん。避難した大道の壕で悲惨な光景を目撃することになります。

大西正子さん「照明弾が上がったかと思ったら、艦砲射撃が飛んできてね。隣の人に直撃して、この方の体が飛んで、肉片が私の体中に降ってきたんですよ。そこのお鍋の中にも…、もう怖くて怖くて、急いで隠れたんですね。その時の恐ろしさっていうのは、私は一生涯忘れないと思います。」

戦火が激しくなるとともに大西さん一家は、那覇市内を抜け、各地を転々としながら南へと逃げていきました。

大西正子さん「まともに向こうから来るでしょう艦砲射撃、もうここにはおれないと思って、またここから出て、トロトロ歩いて…」

一時、身を寄せた糸満市の製糖工場でしたが、、姪や甥、いとこなど4人が亡くなり、大西さん自身も両足にケガをしました。誰かの死をいたわってあげられる余裕もなく追いつめられるように避難を続けたといいます。

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大西正子さん「自分たちもいつか死ぬ、すぐに死ぬかもしれない、あと1分後かに、自分たちもそういう目に遭わないという時でしょう。生きることに必死というよりは、成行きに任せるほかなかった。」

沖縄戦で一家13人を失った大西さんは、戦後、「もう死んでしまいたい」と思ったことがあったといいます。

大西正子さん「命っていう言葉は重いですよね。自分の命を大切にしない方たちの気持ちを思いとどまって下さることを願って、私たちボランティアはやっいます」

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かつての経験を役立てたいと「沖縄いのちの電話」という自殺に悩む人たちの話を聞く取り組みに40年近く、携わっています。現在は、運営委員長として、相談員を養成するため自身の戦争体験を話して、命の大切さを伝えています。

大西正子さん「沖縄の何十万人って死んだ方たちはですね。死にたくて死んだんじゃないんですよ。それを考えたらね、もう、いてもたってもいられないような気がします。大勢の人も、世界中の人も命を大事にしてほしいって私は思っています。」