65年前の今日、宜野座村に初等学校が誕生。しかし多くの人々が集まっていた村内では、子どもたち全員が通えたわけではありませんでした。 県から南部地域住民の疎開地に指定されていた宜野座村。4月以降は捕虜に…
65年前のきょう、玉城村百名で小学校が開校。その目的は、子どもたちの命を守ることでした。 南城市玉城百名の百名初等学校跡地。百名には収容所が置かれ、避難民が続々と集まっていました。食料の乏しい収容所で…
県内各地に設けられた収容所。そのひとつ、知念村屋比久の収容所で65年前の7月15日、一人の日本兵が逮捕されました。 八原高級参謀長。 32軍司令部で牛島司令官、長参謀長と共に沖縄戦の戦略を練ってきた人…
沖縄戦記録フィルム「1フィート運動の会」の代表を勤める福地曠昭さんの著書「村と戦争」です。 『6月23日に沖縄戦は終わったといわれるが沖縄の‘終戦゛は各個人によって違いがある』『喜如嘉でも7月中旬まで…
65年前のこの頃、親や兄弟と離ればなれになった孤児たちがピークに達していました。 傷の手当を受ける子、カメラを寂しそうに見つめる子どもたち。 65年前のこの頃、沖縄戦で親を亡くした乳児から20歳未満の…
福元藤吉さん「残っている兵隊、壕に入っている兵隊が、時々、攻撃したりしているんです。それも8月、9月までやっているみたいでした」 糸満市米須の福元藤吉さんは当時10歳。激戦地の南部で家族とともに捕虜に…
ひめゆりや白梅、そして鉄血勤皇隊など、県内21の中等学校から学徒として動員された10代の若者たち。 戦前、首里にあった沖縄師範学校と県立一中の学徒隊はおよそ460人が死亡。 文部省は65年前のきょう東…
日本軍による組織的な戦闘が終わった後も多くの敗残兵が南部に残り、7月に入っても断片的な戦闘は続きます。 投降のビラをアメリカ兵に手渡し、血だらけの状態で捕虜となる日本兵。本島南部では第32軍を率いた牛…
65年前のきょうアメリカ軍は沖縄占領を目的としたアイスバーグ作戦の終了を宣言。次のターゲットを日本本土に定めます。 1945年1月にアメリカ軍がまとめたアイスバーグ作戦の計画書。その中には、目的として…
ここは、糸満市宇江城にあるクラガー。もともと集落の水汲み場として使われていましたが、第24師団が後退してきてからは、その司令部がおかれました。 糸満市史には住民の犠牲者について、アメリカ軍の攻撃だけで…
65年前のきょう、久米島では日本軍が久米島の住民をスパイ容疑で虐殺しました。 牛島中将が自決し、組織的戦闘は終わった沖縄戦。ところが、久米島では26日にアメリカ軍が上陸したあと、悲惨な事件が起こりまし…
65年前の6月27日、アメリカ軍は日本軍最後の地摩文仁の丘に星条旗を掲げます。 この映像は、収容所に集められた多くの日本兵たち。牛島満・長勇が自決し、「最後まで敢闘せよ」との命令に、わずかな武器で斬り…