著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。

シリーズ「たどる記憶つなぐ平和」です。今回は沖縄戦で組織的戦闘が終わったとされる1945年・6月23日以降の状況を取り上げていきます。6月23日は住民にとって、平和が訪れた日とは言えませんでした。その後も、日本軍とアメリカ軍の戦闘は続いたほか、この日以降も日本軍の住民虐殺も起きています。

2010年、QABが放送した年間企画「オキナワ1945島は戦場だった」を一部再構成してお送りします。

戦後80年を迎えた、先月23日の慰霊の日、糸満市の平和祈念公園には多くの人々が訪れ、沖縄戦で犠牲になった人たちを追悼していました。

たどる記憶つなぐ平和#28「6・23後の沖縄戦/続く犠牲、始まる米軍支配」

1945年6月23日、日本軍・第32軍の牛島司令官が自決し、沖縄戦での組織的戦闘が終わったとされる日です。ただ、当時の状況はこの日で戦いが終わったとは到底言えなかったのです。

上江洲盛元さん・2010年取材「首にひもをくくって、道はこっちから海岸のところへ引っ張って行って」「見せしめのために引っ張っていったといわれています」

沖縄本島からおよそ100キロ離れた久米島。島に駐留していた日本軍の虐殺行為を行ったのは、牛島自決後の6月27日からでした。

沖縄戦の組織的戦闘の終結と前後して、久米島にもアメリカ軍が上陸。アメリカ軍は島の状況を知ろうと住民を捕えました。それを知った日本軍守備隊の鹿山隊長は命令を下します。

「アメリカ軍と接触した者が帰ってきたら直ちに軍駐屯地に引き渡すこと」「命令にに違反した者はスパイとみなし、その家族はもちろん警防班長、区長は銃殺する」

鹿山隊はアメリカ軍と接触した住民や、区長、警防団長らを殺害。鹿山隊長らは9月にアメリカ軍に投降するまでに、0歳から70歳までの住民20人の命を奪ったのです。

たどる記憶つなぐ平和#28「6・23後の沖縄戦/続く犠牲、始まる米軍支配」

沖縄戦の組織的戦闘が終わっても、久米島の住民を恐怖で支配した日本軍。戦後65年たった2010年の取材では、当時を知る人たちが重かった口を開いて語る証言が残っています。

喜友村宗秀さん・2010年取材「(敗戦を知らない日本軍は)米軍にひいきするやつはやる(殺す)という状態だった」

譜久里廣貞さん・2010年取材「日本は勝利か考えていないから」

喜友村宗秀さん・2010年取材「米軍よりも友軍が怖かった」

喜久永米正さん・2010年取材「誰かに見られたらアメリカと話しよったと(日本軍に)告げる」「そうしたらスパイと決めつけられてやられる」「疑心暗鬼で、人を信用できなくなる」「戦争というのはそういうところが一番怖い」「口に出せない、話せない怖さがある」「話せないくらい怖いものだと知ってもらいたい」

たどる記憶つなぐ平和#28「6・23後の沖縄戦/続く犠牲、始まる米軍支配」

アメリカ軍が上4月に上陸して以降、苛烈な地上戦となった沖縄本島。7月に入っても日米の断片的な戦闘が続いていました。

福元藤吉さん・2010年取材「残っている兵隊、壕に入っている兵隊が」「時々、攻撃したりしているんです」「それも8月、9月までやっているみたいでした」

糸満市の福元藤吉さんは当時10歳。激戦地の南部でアメリカ軍に保護されました。金武に向かう道中で兄夫婦と妹、祖母をなくした福元さん。道中はおびただしい死体だったといいます。

福元藤吉さん・2010年取材「歩く道、全部、もう死体が転がって」「10歳の子どもがまっすぐ歩ける道じゃない」「国民、住民をだまして、捕虜にとられたら戦車に轢かれるとか」「いろいろなデマを飛ばして、住民を助けようとしなかったのが怒り」「戦は、もう二度とやってはいけない」

住民の命がいまだ脅かされていた中で、アメリカ軍は牛島司令官自決の翌日の6月24日、摩文仁の地に星条旗を掲げます。7月2日には沖縄への上陸作戦・アイスバーグ作戦の終了を宣言。沖縄本島を掌握したアメリカ軍。当初の作戦目標であった、日本本土への攻撃に向けた沖縄の基地化を進めていくことになります。

石破総理「沖縄の皆様には、今もなお米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいております。沖縄の負担軽減を目に見える形で実現する。それが私自身の強い決意であります」

たどる記憶つなぐ平和#28「6・23後の沖縄戦/続く犠牲、始まる米軍支配」

今年の慰霊の日、戦没者追悼で沖縄を訪れ、こう強調した石破総理。

岸田前総理・2024年「今もなお、沖縄の皆様には、米軍基地の集中等による大きな負担を担っていただいています。政府として、このことを重く受け止め、負担の軽減に全力を尽くしてまいります」

去年の式典に参列した、当時の岸田総理も同様の発言をしていました。歴代総理が繰り返してきた言葉と裏腹に、沖縄戦を経て、沖縄に置かれたアメリカ軍の基地は、さまざまな名目をつけては戦後80年たった今も、存在し続けています。

組織的戦闘が終わった6月23日以降の沖縄戦の状況がお判りいただけたかと思います。久米島の住民虐殺の例もありましたが、日本軍の牛島司令官が死んでも、県民の命は奪われ続けたことになります。

一方でこの時期から始まったアメリカ軍による沖縄の統治は、結果的に1972年まで続くこととなりました。アメリカ軍の基地問題に限らず、沖縄戦から戦後に連なる経緯についても、これからも詳細にお伝えしていきたいと思います。