シリーズでお伝えしています「たどる記憶つなぐ平和」です。当時6歳で沖縄戦を体験し家族を失った悲しみを抱えながらも、次世代へ戦争の悲惨さと平和について訴える男性を取材しました。
児童「出てこい」「出てこないと撃つぞ」
薄暗いガマの中で沖縄戦当時の住民とアメリカ兵に扮する子どもたち戦後80年たった今、なぜこんなことをしているのか、そこにはある理由があります。
喜舎場さん「子供たちがやることによって、さらにまたそういうあれ(戦争の悲惨さ) 経験できるんじゃないかなと思ってですね」

戦争を知らない世代が多くなる中「もう2度とあの戦争を繰り返さない」と自身が体験した辛い記憶をたどりながら、子ども達へ継承のバトンを託します。
児童たち「おはようございます」
先月、浦添市立中央公民館が主催した平和学習会、仲西小学校の児童へ向けて自身の戦争体験を語る男性がいます。
喜舎場宗正さん(86)です。
喜舎場宗正さん「私にも皆さんみたいにピチピチした子供の時代がありました」
1939年、浦添村の宮城集落で生まれた喜舎場さんは祖父・父・姉・妹の5人で生活していました。しかし、戦況の悪化で父親が防衛隊へ徴集されました。1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸すると浦添でも激しい戦闘が行われ喜舎場さん一家4人は戦場を逃げ惑うことになりました。

しかし、その途中、祖父は銃撃され亡くなり、子どもたち3人でガマへ向かうことに。
喜舎場宗正さん「当時、絶対に捕虜になってはいけない。捕虜になったらどうせ殺されて、戦車に敷かれて殺されるとかそういう宣伝が行き渡っていたんです」
喜舎場宗正さん「敵兵が銃を構えて『出てこい出てこい、撃つぞ、出てこないと撃つぞ』と脅しはかけてきますけれども出ませんでした」
すると、アメリカ軍がガマの中にガス弾を投げ込みガマの中はパニック状態に。
喜舎場宗正さん「こっち(ガマ)から逃げようということなんです。キヨコ(妹)もですね、そのときはもう置き去りにされてますね」

怯えて動くことのできない妹をガマに残し、姉と2人で外に出た喜舎場さんは、現在の宮城公民館近くの防空壕へ逃げ込みました。
喜舎場宗正さん「皆さんから右側だな、この空き屋敷になっているところ。この屋敷にですね、防空壕があったんですよ」
しかし、そこで待っていたのはアメリカ軍の火炎放射による攻撃でした。
喜舎場宗正さん「火炎を吹き込まれるもんだから、この暑さが耐えられないんだよ『アッチャ、チャ、チャチャ』もう耐えられない、中にはやけどをする人もいるし、火炎を浴びてね。そこで耐えられなくなって出ていくんですね、防空壕から出ていく、そして囚われの身になってしまうわけですね、米兵のね」
その後、喜舎場さんは捕虜となり沖縄市にある孤児院へ、そこでガマに残した妹と再会します。
喜舎場宗正さん「私と姉は、ガマに妹を置き去りにして速攻逃げたんですよ、そのときもう、1人1人も自分のことで精一杯」

喜舎場宗正さん「妹が米兵に保護されて来たんです、もうこの格好たるやもう、変わり果ててお腹こんななってね」「もうあまりのショックでね、近寄ることもできない、妹に、妹が病院にも一緒に暮らせないということで連れていかれます、もうどうなったかわからない」
妹の消息が掴めぬまま終戦をむかえます。戦後、孤児院の慰霊祭に参列した喜舎場さん。そこで見たのは、妹・キヨコさんの名前が書かれた「犠牲者名簿」でした。
喜舎場宗正さん「極端な栄養失調ですから亡くなったんでしょうね。それで、結局、キヨコのあれ(死亡)がはっきりした、毎年、慰霊碑に行って手を合わせております。私の心の底にえぐられた傷というのはね、これはもう直しようがないです。そういうのトラウマというんでしょうね」

児童「ガマで兵隊たちが出てこいって言って出なかったら撃たれるし、出ても生きれるか分からない状態だったから怖いなって思った」
児童「みんな争うとかじゃなくて、みんな仲良く暮らして行けたらいいと思う」
心に深い傷を抱えながらも沖縄戦で体験したしたことを子ども達に伝える喜舎場さん、非戦と平和の尊さを訴え続けます。
喜舎場宗正さん「『命どぅ宝』というのはまさにそうだな、戦争があってはいけない。平和が一番」
児童「平和な世の中にするために僕たちにしてほしいことはありますか」
喜舎場宗正さん「みんなで手を繋いで、しっかりとね未来をめざす平和な世の中を作っていくと、そういう心意気が大事なんじゃないかなと思います」
つらい経験をしながらも「もう二度と戦争を繰り返してはいけない」と喜舎場さんは、毎年、地域の子ども達へ自身の戦争体験を語っています。仲西小学校では、喜舎場さんの話をまとめた紙芝居を読むなどして地元の沖縄戦について学んでいくということです。