ここからは、シリーズでお伝えしている「たどる記憶・つなぐ平和」です。戦争体験者が年々少なくなる中で、これまで「家族が暗い気持ちになる」と自身の体験を語ってこなかった90代の女性が、今回初めて家族の前で話しました。その思いに迫ります。

沖縄戦当時のことを振り返るのはことし95歳の女性です。今回初めて自身の体験を家族に話しました。
上地冷子さん(95)は、冗談好きな明るい性格で、娘や孫・ひ孫とのユンタクがいつも楽しみだといいます。笑顔が絶えない冷子さんですが、これまで家族に自身の沖縄戦を話したことはありませんでした、今回話すきっかけとなったのは、報道カメラマンの孫の存在でした。
冷子さんの話に家族は静かに耳を傾けます。当時15歳だった冷子さんは美しい自然ときれいな海に囲まれた名護市の屋我地島に住み家族で塩作りをして暮らしていました。

1944年10月10日、アメリカ軍は沖縄にある日本軍の飛行場や港などを標的とした大規模な爆撃を行います。県内全体の死傷者は少なくとも1500人を越えたという、いわゆる「10・10空襲」です。当時、家にいた冷子さんは父親に言われ防空壕に避難しました。生まれて初めて聞く耳をつんざくような音が静まった後に外に出ると、周囲は空爆でできた穴だらけで住んでいた家は跡形もありませんでした。
何とか生活を復興させようとしていた1945年のある日、アメリカ軍がやってきました。冷子さんと家族は昼はお墓に隠れて兵隊に見つからないようにし、暗くなると食べ物を探す、常に死を意識する生活を強いられます。

逃げ隠れる生活が4か月ほど続き、心身ともに極限状態のなか一緒に逃げていた人たちから声が上がります。
「敵に捕まるくらいなら、みんなで潔く自決しよう」
当時、捕虜になってはならないと日本軍から教え込まれた人々からは、隠れ続ける日々のなかで自然と「自決」という言葉が出てきました。冷子さんも当時は自決すべきと思い、一緒に逃げていた人たちと集まって実行しようとしていました。

しかし、手りゅう弾が手に入らず自決をあきらめました、終戦を知ったのはその数日後のことでした。
一緒に逃げた家族とともに戦争を生き抜いた冷子さん。ただ、大切な兄とは二度と会うことはできませんでした。
戦後、政府からの通知があり、徴兵されて戦場に送られた兄が戦死したと知りました。冷子さんが幼いころに出兵した顔も思い出せない兄の最後にかけてくれた言葉だけが今でも耳に残っています。

これまで知らなかった冷子さんの話を聞いた家族は。

カメラ越しに見つめていた孫は。
話を聞いた後、ひ孫の葵ちゃんは家族みんなが笑顔の日常を絵に描いていました。
冷子さんが繋いだ命の大切さと、これからも平和が続いてほしいという思いは、家族にしっかりと受け継がれていきます

戦争体験を家族にさえ、なかなか話すことができない方が多い中、今回、撮影を伴う状況でお話していただきました。あす・8月15日は「終戦の日」ですが、ことし80年という歳月が経っても、決して「心の傷」が癒えることはないということを女性の話から伝わってきました。