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戦後80年の節目に、戦争について考えるシリーズ「たどる記憶、つなぐ平和」です。およそ9万4000人の住民の命が奪われた沖縄戦では家族全員が犠牲となる「一家全滅」のあった地域も少なくありません。

今回は、2017年に放送した内容を一部再編してお送りします。悲惨な光景を目の当たりした、貴重な証言をお聞きください。

西原町、沖縄戦当時、村民の2人に1人が犠牲となる激しい戦いが繰り広げられました。

玉那覇香代子さん。当時11歳。翁長地区で生まれ育ちました。

玉那覇さん「この辺が翁長じゃないかな」

玉那覇さんが案内してくれたのは、翁長地区にある町内の犠牲者の名が刻まれる刻銘板です。

玉那覇さん「私たちはね、屋敷内の片隅のほうにある小さなおうちに住んでいたけど、この大きな貸してくれた大きなおうちの方はね、全滅。おじい、おばあ、娘さんね。あーいえな1人も残らん」

たどる記憶つなぐ平和#22「一家全滅から考える」2017年6月23日(再放送)

これは町がまとめた世帯別被災者記録。翁長地区の欄には「一家全滅」と記された場所が目立ちます。翁長地区では全世帯の38%にあたる71世帯が一家全滅となりました。

家族とはぐれて1人で避難を続けていた玉那覇さん、地域の人が避難していた馬小屋へと逃げ込みます。ある日、同級生の母親に連れられその場を離れました。しばらく歩いたその時です。

玉那覇さん「その馬小屋にね艦砲射撃がビューンばバーンって、ずっと大砲、爆弾も艦砲射撃も落ちるわけ、そしたら(人々が)飛び散るのよ。見えよった、山の上から、そしたらおばさんが「トシ子よトシ子よ」して降りたさ」「トシ子は壁に沿って、こんなして死んでいたよ」

たどる記憶つなぐ平和#22「一家全滅から考える」2017年6月23日(再放送)

この馬小屋では20人以上が亡くなりました。5月末、アメリカ軍は首里を占拠。日本軍は南部へと撤退し戦いの場は南へと移ります。

糸満市米須。県道沿いに静かに建つある慰霊碑があります。忠霊之塔です。この慰霊碑の下にはアメリカ軍の攻撃により多くの家族が命を落としたガマがありました。ガマの名は「アガリンガマ」慰霊碑には犠牲となった50家族159人の名が刻まれています。

たどる記憶つなぐ平和#22「一家全滅から考える」2017年6月23日(再放送)

久保田宏さん「(入り口は)大体その辺じゃなかったかな」

久保田宏さん、当時4歳でした。家族でアガリンガマに避難していました。

久保田宏さん「2、3歩降りたら、最初踏み台の40センチ角ぐらいの石があった記憶があります。そしたらまた30センチぐらい下がって、それからは階段じゃなくて坂になって。急じゃないけど少し傾斜の道があったんです」

久保田さんの母親は、ガマの入り口近くで亡くなりました。母が亡くなったのは19日です。

久保田宏さん「食事の調達から帰ってくるときに、弾に打たれて入り口のほうで、ちょっと入ってすぐ弾にやられて亡くなったみたいです」

幼かった久保田さんに母親の記憶はほとんどありません。

「どうせ死ぬならきれいな水を飲んで死のう」死を覚悟した父親は子どもたちを連れて、海岸近くの湧き水へと向かいました。

アガリンガマが攻撃を受けたのはそのすぐ後でした。

たどる記憶つなぐ平和#22「一家全滅から考える」2017年6月23日(再放送)

久保田宏さん「アメリカ兵も重機か戦車なんかで入り口を埋めてドラム缶にガソリン入れて火をつけて流したみたいです。奥のほうにドラム缶なんかあったみたいです。焼けたドラム缶が。それでみんな窒息死しているんですよ。159人かな」

戦後、久保田さんの父親や犠牲者の親族が中心となりこの地に建てた慰霊碑。犠牲になった家族たちの「生きた証」になっています。

戦争体験者が語る、一家全滅の記憶。戦後80年が経ち、その体験を語ることができる人々が減少する中、改めて私たちはその証言に耳を傾ける必要があります。