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戦後80年の節目に戦争について考えるシリーズ「たどる記憶・つなぐ平和」です。今回は現代に連なる国民保護の住民避難について取り上げます。

台湾有事も念頭に先島地域の住民が九州に避難する計画が浮上しています。一方で、80年前の沖縄戦では軍と民間人が混在し中で多くの犠牲も出ています。80年前からどのような教訓を引き出し、今の問題をどうとらえるべきなのか考えます。

平良啓子さん 2014年「頭にこびりついています、海に沈んだ子どもたちの姿が見えるんですよ」「生きていてすまないな、私は生きているんだったら、この子たちの霊を慰めるためにも、二度とあんなことがないように戦争をしないような世の中を作るためには叫ばないといけないと思って」

たどる記憶つなぐ平和#19「沖縄戦と国民保護『80年前の教訓』とは何か」

戦後69年の2014年、QABのカメラにこう語っていた平良啓子さん。1944年8月22日、米軍の潜水艦に沈められ、1484人が犠牲になった疎開船「対馬丸」の生存者の一人です。

この年、日本軍や県は子どもや老人などおよそ10万人を「軍の足手まといになる」とし、本土や台湾に疎開させる方針を決定。軍艦や輸送船は沖縄に兵士らを運んできた帰りに、疎開する県民を乗せ、本土と沖縄を行き来していました。その中で起きたのが対馬丸事件だったのです。

戦争体験を語り続けてきた平良さんが亡くなったのはおととし7月29日。

その数日前、当時の松野官房長官が八重山地域に入り、地域の首長らと話し合っていたのは国民保護法による住民避難の計画。台湾有事の懸念も念頭に、先島の住民を九州に避難させる計画は自治体も組み込みながら、急速に進んでいます。

中林准教授「一般人が残っている状況で戦闘における文民の被害は」「沖縄に限らず太平洋戦争における南洋地域ではいずれも見られた」「そうならないのが一番いいが」「国民保護という観点であれば早期の避難を実現する」「というのが何より一番大きい教訓」

沖縄戦と国民保護を比較して分析するのは、日本大学の中林准教授。

たどる記憶つなぐ平和#19「沖縄戦と国民保護『80年前の教訓』とは何か」

中林氏 2013年「県民のみなさまの様々なニーズですとか、安心につながるような、こういうことやって頂きたいとかご要望を受けて、柔軟に自分の能力を活かしていきたいと考えています」

国際関係論や総合的安全保障、危機管理などの専門家として、2013年からおよそ3年間、県庁に勤務。県庁内で国民保護の検討などに携わりました。今も県の図上訓練に参加するなど、沖縄での国民保護の状況をつぶさに分析しています。

中林准教授「10年前くらいに私一人でやっていた時はもちろんのこと、令和4年の(訓練の)スタート地点から考えても着実に大きな進歩がみられている」

一方で、戦争の準備だと批判もある国民保護の訓練や検討。そうした中でも中国の軍備拡張なども背景に、県や市町村で検討が進んできた状況を振り返ります。

中林准教授「目の前に相手の、敵国に兵隊がいるという状態での地上戦を経験した日本の地域はそんなに多くはない」「つらい生々しい経験を地域で共有されてきた中で」「だからこそ強く平和を求められる」「だからこそ国民保護みたいなことは考えられない、考えるべきでない」「それより前にやるべきことがあるだろうという、国民保護法、当初の県のスタンスだったと思う」「偏見をもって沖縄を語る人はいるけれど」「すごくこの問題をリアルにとらえているからこそ」「複雑な思いを持ちながらもこうした検討が進んでいる」

小嶺博泉さん「ピクニックに行くんじゃないんだからと」「佐賀に遊びにくんじゃないんだから」「生活をなげうって移動するわけじゃないですか」

こう語るのは、与那国島に住む小嶺博泉さん。国などの計画では、与那国町の住民1700人が1日の間に島を出て避難先の佐賀県に向かうことになっています。

小嶺博泉さん「用が済んだらお前どけよみたいな感じ」

たどる記憶つなぐ平和#19「沖縄戦と国民保護『80年前の教訓』とは何か」

与那国島でおよそ100頭の牛を育て、生計を立てる小嶺さん。避難計画では家畜は放牧し、島に残すことになっています。計画が具体化していく中、小嶺さんは、ある理屈を振りかざし、80年前の戦争被害に向き合おうとしない国の姿に、疑念を向けていました。

小嶺博泉さん「沖縄だけでなく原爆が落ちて亡くなった方もいらっしゃる」「その方々の救済はされているのか。補償されているのか」「されてない」「なぜなら戦争は等しく国と一緒になって国是として向かうものだからと、判決が出ている」「これが『受忍論』じゃないか」

「受忍論」とは「戦争被害は国民が等しく我慢すべき」との考え方。政府が太平洋戦争での原爆投下や空襲の被害について、今でも民間人の補償を拒み続ける根拠になってきました。

たどる記憶つなぐ平和#19「沖縄戦と国民保護『80年前の教訓』とは何か」

先月4日、政府は国会で国民保護と受忍論の関係性について問われ、武力攻撃事態の後に「復興政策の在り方の一環として検討するべきもの」とし、明言を避けています。

小嶺博泉さん「80年たった今」「避難してください。国民保護法のもと、災害救助ではなく武力攻撃事態」「戦争に入りますので出てくださいってことは」「その時点で受忍論を引き受けましたということになる」「真剣にここに住んでいる人間の生活っていうものに」「目を落として、注視して、国民保護法で構築してくださいよという」「意味で言っているんですけどね」

台湾有事を念頭にした避難計画の検討が進む中、80年前から学ぶべきものは戦火を逃れ住み慣れた地を離れても、あるいは避難しなくとも強いられる住民被害の実態です。

中林准教授「(有事が)起きる可能性はこれだけ言われて90%かといわれるとそうではない」「じゃあ起きない確証はあるのか」「1億2千万人の国民、あるいは130万の県民の生命や人生を天秤にかけて」「起きないといえる何か(確証)があるのか」「ない以上は考えようと」

たどる記憶つなぐ平和#19「沖縄戦と国民保護『80年前の教訓』とは何か」

小嶺博泉さん「与那国の人間、沖縄の人間だけでなく日本国民すべてに問いたい」「あなたならやりますかと」「これまでの人生、自分だけじゃなく先祖からの系譜もすべて投げ出してもいいといえるほどの法整備が」「80年前から今に至るも何も整備されていないのに」「わかりました。お国のことなので」「なんてことは。容易には言えないんじゃないかと思う」

故郷が戦場になると住民はどうなるのか。いま80年前の沖縄戦と再び同じようなことが起きれば、住民は80年前と同じ状況に追い込まれるのではと懸念も募ります。

「避難をしろ」と言われてもその後の生活をどう保証するのか。国は明確な方針を示していません。

自らの生活の基盤を捨てることを強いる有事の避難がどういうことなのか、県民全体でイメージして考えていく必要があります。