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戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 沖縄戦で孤児になった女性

シリーズ戦後70年「遠ざかる記憶近づく足音」です。さて、この3000という数字。何を意味していると思いますか?この数字は、沖縄戦で、沖縄本島で戦争孤児になった18歳未満の人の数です。ただこれは戦後8年たった時の調査ですので、終戦直後はもっと数多くの孤児が生まれたと推定されています。今回、この中の一人、沖縄戦で母と弟を失い、わずか7歳で孤児になったある女性を追いました。

神谷洋子さん「かぁちゃんと一緒に逃げるんだよと言われて、手をひかれて。あの優しさ、本当の母のぬくもりっていったらこれだけですね。」

沖縄戦の最中に感じた、母のぬくもりについて語るのは、神谷洋子さん(78)。神谷さんは、母と弟と南部に逃げようとした途中、休もうとした壕に、艦砲弾が落ち2人を目の前で亡くしました。

神谷さん「母の最後の言葉『ようちゃんこっちにきなさい。こっちで早く寝なさい』という一言をいって、ほんのちょっとで爆弾おちたものだから。その時にいつも母がつけてたもんぺの焼け焦げたのが壁にあったんですけど。」「亡くなったねと思って。」「上から底なし沼まで落ちたような(感覚)」

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わずか7歳で孤児になった神谷さん。戦場でひとり、どこに逃げていいのか、何を食べたらいいのか逃げ惑っていました。そして、久しぶりに貰ったカンパンを、味方だと思っていた日本兵に奪われました。

神谷さん「(日本軍に)お前が食べたら国のためにならんから、俺が食べたら国のために戦っているから、この食べ物よこしなさいって奪われたんですけどね。私のものですって泣いてすがるんですけど、革靴でけられてね・・。」

誰ひとり助けてくれない戦場。艦砲も人間も全てが怖かったと言います。

神谷さん「お母さんがいないから、泣きませんから助けてっていっても、絶対誰も助けてくれない。こっちいらっしゃいという人は一人もいませんでしたね。」

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来る日も来る日も1人で逃げ続けたある日。壕の前に座り込んでいた神谷さんの前に現れたアメリカ兵がトラックに乗せ、連れて行ったのがコザ孤児院でした。当時、県内には孤児院が13ヵ所あったとされ、中でもコザ孤児院は最も大きかったといわれています。

神谷さん「70年前とそのまま。(Q:全部そのまま残っているんですか?)そのままですね。思い出しますよ。泣いても泣いても母はいないし、もうあの苦しみは大変ですよ。」

孤児院でもさらに苦しみは続いたと話す神谷さん。当時17歳で、コザ孤児院の先生となった、元ひめゆり学徒の津波古ヒサさんは当時の状況をこう話します。

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津波古ヒサさん「寝る間際になるとみんな西の空にむかって、かぁちゃんよーして泣いて、わずか2、3歳の子が一番大事な人を失ってそれも分からないで、いつかくるんだ、いつか(両親が)迎えにくるんだという希望をもってただいるっていうこと。それ考えたらかわいそうで、すぐ抱きしめてあげた。」

親を呼んで泣く声がやまず、毎日何人もの子どもたちが栄養失調やけがで亡くなっていったといいます。

神谷さん「子どもたちが亡くなってかたまって、外に出されるのをみて、自分もあんな風になるのかなと思った。あの辛さ、怖さ、あの恐怖感。あれは忘れることはできません。」

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神谷さんは、戦後、子ども6人、孫13人に恵まれ、長女のたえこさんと鮮魚店を営んでいます。そして、時には、依頼を受け、修学旅行生などに戦争の残酷さや平和の大切さを伝えています。

神谷さん「お父さんお母さんの事守ってね。大事にしなさいねというのは自分ができなことだから言うんですよ。私みたいな苦しみが起こったら大変なことになりますから。戦争を起こしてはいけないんですよ、絶対に。平和でなければ。」

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神谷さんに取材して、一番犠牲になるのは弱い立場のこどもたちだと、何度も何度もおっしゃっていたのが印象的でした。

つらい過去を語るだけでも苦しくなると思うけど、話してくださるのは、同じ体験を子供たちにさせたくないという一心で語ってくださるんですよね。私たちもこの思いを受け継いでいかなければなりません。