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シリーズ5・15復帰前後の激動の時代、高校の社会科教師として沖縄の不条理を教え続けたある男性がいました。そこには男性の教員人生を変えたある事件がありました。

平良宗潤さん「7年と8年ですから合わせて15年ですね(Q38年のうちの15年とは長いですね?)出身校ですから最後はと思っていたけど」

シリーズ5・15 教育者が見つめた祖国復帰

平良宗潤さん73歳。高校の社会科の教師として戦後初めて平和教育に取り組んだ第一人者といわれている平良さん。38年の高校での教員人生の中で、母校でもあるこの糸満高校での公開授業が忘れられないと言います。

平良宗潤さん「現代社会の締めくくりとして沖縄の現実を考えさせるとして国場君事件を。」

1963年2月28日。平良さんが東京の大学から教員免許を取得し沖縄に帰ってきた直後におきた衝撃の事故でした。

現在の58号線、当時1号線で青信号の横断歩道を渡っていた国場秀夫さん当時13歳が信号を無視したアメリカ軍のトラックに轢かれ死亡。その2ヵ月後の裁判で運転していたアメリカ兵が無罪となった「国場君れき殺事件」です。

事件から3ヵ月後に開かれた抗議大会。そこで語られた国場君の同級生の言葉は教師になったばかりの平良さんに何をすべきかという「使命」となって残ります。

シリーズ5・15 教育者が見つめた祖国復帰

上山中・佐久真曙美さん「青でもいけないとなってしまったら私たちはいったいどんな色になった時に渡ればよいでしょうか。正しい行ないをしてそれが受け入れられなかったなんて民主主義の道からはずれたことではないでしょうか」

平良宗潤さん「教師として何をすべきかを考えさせてくれた発言だったのでずっと耳に残っています青でもいけないならどんな色のときに渡ればいいのかと僕は今の不自然な軍政下の時代を変えないといけないと。」

平良先生は自らも復帰デモの先頭に立ちながら、社会科の授業の中で、常に「沖縄」への不条理を生徒たちに問い続け、考えさせる授業を展開してきました。

1972年5月15日・日本復帰。しかし、残った広大なアメリカ軍基地と不条理な地位協定の仕組み。復帰しても不条理を伝える平良先生の授業が変わることはありませんでした。

シリーズ5・15 教育者が見つめた祖国復帰

平良宗潤さん「沖縄の基地の現実は全く変わらないのでそれをどうやって今の先生方が生徒たちに伝えるか。僕は沖縄の教師であり沖縄の子ども達に教えているんだということそれをいつも授業を計画するときには頭に置くべき。」

小禄高校授業・川上琢也先生「この事故を起こした米兵が言ったのは「夕日がまぶしくて信号が見えなかった」とじゃあ仕方ないねと無罪になった。考えられないですよね?日本人が同じ事故を起こしたら絶対通らない所がそれが通っちゃうそういう世界だったんです当時は」

平良さんの教え子の一人。川上琢也先生。現在、小禄高校で社会科を教えています。

川上琢也先生「平良先生に一番言われて今でも覚えているのがどんな単元の中でも沖縄のことに触れてほしいと毎年(復帰の特設授業)は取り組んではいるんですが今の生徒は関心が薄い僕らも生まれる前の出来事なのでまずは僕ら自身が事実をどう伝えていくか。」

「常にその時沖縄がどうであったか問いかけ、かんがえさせなさい」川上先生は10年以上たった今でも平良先生の言葉のもと授業をしています。

川上琢也先生「5月15日で復帰したはずなんだけどじゃあ本当に復帰と言えるのか課題があるんじゃないか考えてみてください。」

生徒たち「基地の中を日本の法律にする。」「沖縄の人が総理になればいいんじゃない。」

復帰後の沖縄の課題を當ことで生徒たちにとってただの歴史上の出来事だったものが自分たちの今の生活をつながっていきます。

シリーズ5・15 教育者が見つめた祖国復帰

教科書の枠を越えて「沖縄」を教える使命。それは復帰して42年が経つ今も変わっていません。

川上琢也先生「考えることがこれから大事になっていくぜひそれを忘れないで沖縄を作っていくのはみなさんなので頑張って下さい。」

社会のモラルやルールを生徒に教える立場の教師である平良さんでしたが、米軍がらみの事件や事故でそのルールが捻じ曲げられるという沖縄の矛盾を見つめながら教壇に立ち続けました。その思いは復帰を知らない世代にも受け継がれています。