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65年前のこのころ、収容所や病院などでは生死もわからなかった家族との再会のドラマがありました。

島袋文子さん「捕虜にされた時の怖かったこと。見たら赤毛の青い目の身長の高いのがいっぱいいて」

6月、南部の壕で火炎放射機に焼かれ重傷を負った島袋文子さん。運ばれたのは宜野座の野戦病院でした。大きなテントにレントゲン室や手術室も用意され、多い時で500人以上収容されていました。

ここには文子さんのように南部で重傷を負った住民ばかりが毎日トラックで運び込まれ、それに比例して毎日数十人単位で死んでいく状態でした。

一命をとりとめた文子さんは歩けるようになると、すぐに大久保の収容所に移されますが、気がかりなのは同じく重症を負って生き別れた母のこと。

ある日、宜野座病院で母を見たという話を聞き探しに行くと、視力を失い、やせ細った母が放心状態で座っていました。そこで、恐ろしいうわさを聞いたのです。

文子さん「『今日の夜、お風呂に入れる』と言われた。お風呂に入れるということは帰ってこない、もう死ぬんだよと言われたわけ」

もう助からない患者は「お風呂に入れる」といってテントから出され注射で安楽死させられる。今日は母の番だと聞かされ、文子さんは母を救出する決意をします。

文子さん「おんぶしてね、後ろからくびっておんぶさせてもらったのよ。親も傷で、ものも食べてないからやせ細っているし。15歳の私がおんぶして、足は地面から引きずって、おんぶして逃げた」

左手が使えない状態で重病人を背負い、下水に転がり落ちながらも収容所まで辿りついた文子さん。お母さんはその後、辺野古で天寿をまっとうします。