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原告の一言「援護法の矛盾については理解できるとした。進歩かもしれないが、家族は英霊にされたままだ」

沖縄戦で死んだ母や姉が、軍人でもないのに靖国神社に軍神として祀られているのは耐えがたいと遺族らが神社の名簿からの削除を求めている沖縄靖国訴訟。戦争被害者が援護金をもらい、同時に積極的に戦ったとして靖国に祀られる矛盾についてはなんどかお伝えしてきましたが司法がそれにどう答えたのか注目の判決がありました。

今日の判決で那覇地裁は「民間人を軍属にしてしまう援護法の原告にもたらした苦痛」について一定の理解を示す一方、法的に救済すべきとまでは言えないとして名簿からの削除および損害賠償は認められませんでした。

家族は英霊ではないと主張する遺族5人が2年前に提訴したこの裁判、その経緯と原告の思いをまとめました。65年前、与那原からこの海岸まで逃げてきた安谷屋さん。気づくと、6年生の姉を先頭に5人の子どもだけになっていました。

(この洞窟で)眠ったんですか?安谷屋「眠ったんでしょうね。でもすごい発射音の中でも寝ますよ」まだ2歳の弟は、朝食の準備中だった母とともに爆死しました。安谷屋「だんだんもう、帰ってこないという悲しみがこみ上げてきて残った兄弟が一人泣きだし、一人泣きだし合唱のようになってしまいました。

靖国の神になっているのは、両親、姉、そして弟の4人。神社の書類では、2歳の弟がたま部隊の一員にされていました。崎原盛秀さんの母は、32軍司令部所属として靖国に祭られています。日本軍に壕を追い出されて逃げ場を失い、砲弾に当たった。それが、積極的な戦闘員として祭られるのは何かの間違いだと神社に取り下げを申し出ると断られました。

崎原「誰の許可を得て祭っているんですかとこう尋ねると、いやこちらの勝手ですと。遺族の了解はうる必要はありませんと。そんな馬鹿なと」遺族らは2年前、靖国神社と、戦死者の情報を提供し続けた国を相手に、名簿からの削除と損害賠償を求めて提訴しました。

明治天皇の意思で設立された「靖国神社」。祀られるのは国の戦争で積極的に命を投げ出した人で、空襲で死んだ民間人などは、祀られていません。「死んだら靖国で会おう」という合言葉で国に殉じた人々に手を合わせたいと、毎年500万を超す参拝者が全国から押し寄せています。

しかし、なぜここに沖縄戦で死んだ民間人が数多く祀られ「英霊」とされたのか。そこには、通称「援護法」のからくりがありました。本来は軍人恩給に代わる軍人のための法律ですが地上戦という「沖縄の特殊事情」で適用が拡大され、軍に協力したと申請すれば「準軍属」として援護金が下りたのです。そしてその名簿は都道府県から厚生省を経て神社に渡り、軍人とともに祀られました。

これに対し国は「名簿の提供は行政サービスにすぎない」と反論。そして神社は「合祀による苦痛については最高裁判決が出ていると却下を求めています。

丹羽弁護士「こちらは宗教が違うからと云ってるわけじゃないんですよ。国の戦争遂行政策の中で死んでいった遺族はそれを見ているわけですよ、それを軍人を救済する援護法という法律でなんで救済され、靖国に祭られなきゃいけないのか。2重3重の苦しみがある」

中村記者に聞きます。合祀取下げは、せめて民間人の分は認められてもいいと思いますが、

記者「すべて認められませんでした。今回の争点をまとめてみました。」「まず損害賠償は認めず、合祀取り下げも遺族の強い違和感や嫌悪感など心情について理解を示す一方で、法的利益が侵害されたとは言えないという理由で棄却されこれまでの判決から一歩も前進しませんでした。」

国が主導的な役割を果たしていたと遺族は主張していましたが

記者「国が情報を神社に提供しその結果、合祀に至ったとして一定の役割を果たしたと認めました。」「しかし宗教的色彩のない行政上の措置で主導的に推進したとはまではいえないと判断しました。」

この裁判は他の靖国裁判とちがい、民間人の死者まで英霊にされてしまう、援護法の手続きのもたらした苦痛はどのように言及したのか?

記者「援護法についてなんですが、判決文で「援護法の適用、つまり手続き上で軍属扱いされたにすぎない」として大きな問題ではないような表現になっています。」「これに対して母親が軍人にされた遺族は「この一行は目を疑い、憤りを感じる」と怒りを表しました。」

記者「さらに、悪いことは純粋な民間人を祭神にするのも「神社の信教の自由として、軍人にしようが神様にしようが司法の権限を超えて踏み込めない」としてしまったことなんです。」

それでは、原告にとって何もみるべきものはない結果ですね。

記者「遺族は控訴を検討しています。しかし、裁判のもう一つの大きな目的だった、民間人の死者まで積極的に戦争に協力した「海国美談」にしていくという沖縄戦の読み替えに抵抗し、」

県民と共に考えていくものでその意義は大きく、議論を深める機会を作ったことは評価できます。