戦火を生き延びた人々は必死に生活を取り戻そうとします。しかし「戦果取り」と呼ばれた行動で多くの人が犠牲となりました。 旧居住地への復帰が認められ故郷に戻った人々は衣食住を確保することに奔走する毎日でし…
沖縄諮詢会がアメリカ軍政府に設置を求めていた警察学校が65年前のきょう、旧具志川村に開校しました。 沖縄諮旬会が正式に警察学校の設置を求めた1945年11月からおよそ一カ月後。アメリカ軍政府は旧具志川…
65年前の12月、被爆者として沖縄に帰ってきた壺屋焼の陶工がいました。 島袋常明さん「稲光がして、いい天気でも稲光があるねぇと言って天を見たら、雲が寄ってくるわけですよ。寄ってきたらパーンという音も聞…
65年前のきょう疎開先の台湾にいた八重山の人々を引き揚げさせるため、石垣町長は、台湾へと向かいました。 八重山から台湾に疎開した人はおよそ2500人。敗戦を知った人々は島に引き揚げるため、基隆や蘇襖南…
65年前の12月、いち早く復興が始まった那覇市の壺屋で、戦後初めての陶器が焼かれました。 1945年12月、戦後初めての窯で焼かれたお椀です。11月に先遣隊103人が戻って来た那覇市壺屋。およそ1カ月…
戦争当時15歳だった玉那覇清一さんの証言です 玉那覇さん「中学に入ってから勉強らしい勉強はほとんどない。ぼくの同期生は一中健児の塔、向こうにたくさんいます」 県立一中の生徒だった玉那覇清一さんは、通信…
アメリカ軍政府と沖縄諮詢会が教育の再建に取り組む中、当時、学校での授業は英語で行おうという動きがありました。 収容所内の治安のため、子どもたちを集めることから始まった戦後の教育ですが、青空教室からコン…
沖縄戦では多くの酒造所も壊滅し終戦後、泡盛作りもゼロからのスタートを始めました 具志堅盛輝さん「昭和20年、こっちに来た時は酒は何もなかったよ」 名護市の市街地にある昔ながらの佇まいを残す津嘉山酒造所…
65年前のきょう、ひとりの警察官がアメリカ兵に射殺される事件が起きました。崎原恒喜さん(当時27)。玉城村の船越警察署に勤務していました。妻だった敏子さんはこう振り返ります。 敏子さん「頼りにされる人…
戦場だった65年前のこの頃、戦争で親を失い孤児院で生活していた少年が里親に引き取られました。 宮城定吉さん「おどおどして、大人の顔色うかがって生活していた。ずっと」 沖縄戦で親を失い、身寄りのなかった…