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学童疎開船「対馬丸」に乗船して生き残った体験を語り部として伝え続けてきた平良啓子さんが7月29日に亡くなったことがわかりました。88歳でした。

対馬丸記念館によりますと平良啓子さんは7月29日午前10時23分、大動脈解離のため名護市内の病院で亡くなりました。2週間後には講演をする予定で体調不良などを訴えていたという話はなく突然のことだったということです。

1934年に国頭村安波で生まれ、現在、大宜味村に自宅がある平良さんは安波国民学校の4年生で9歳だった1944年8月21日に学童疎開船「対馬丸」に親族6人で乗り込み、長崎を目指しました。対馬丸はその翌日に米海軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没し、海に投げ出された平良さんは6日間漂流した末に救助されました。祖母や兄、いとこが犠牲になったといいます。

平良啓子さんの講演「時子(同船したいとこ)は私が殺したんだと、私は被害者だと思ったら加害者だったというふうな思いになってしまう。生かされているのも(亡くなった)子どもたちが『語れ、語れ』というから私は語らないといけないから生きなければならない」

戦後、小学校の教師を務める傍ら、語り部として精力的に活動を続け、平和の尊さや事件の悲惨さを伝える講演を長きにわたって重ねてきました。

平良啓子さんの告別式について日程はまだ決まっていないということです。