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シリーズでお伝えしている復帰50の物語。今回は沖縄の文化が根付く、東京都中野区について。中野区は沖縄料理の店も多くエイサーを中心とした大きなイベントが開催されていたりと沖縄文化が根付いています。その理由をたどると、復帰前にできたある場所の存在とその役割を現在まで繋いできた人たちの思いがありました。

響き渡る太鼓の音や勇壮な掛け声。沖縄が世界に誇る伝統芸能のエイサー。これは先月、神奈川県横浜市の鶴見区で行われたエイサーのイベント。本場沖縄のみならず、関東でもエイサーは盛んに行われていてこのイベントにも関東で活動する17団体が参加し、演舞を披露しました。

長引くコロナ禍でほとんどの団体が活動もままならない中で関東のエイサーを途切れさせたくないとの思いで行われました。盛り上がりは、ここ数年で始まったものではなく初めて関東でエイサーのイベントが行われたのは、沖縄の本土復帰の3年後、1975年だとされています。

復帰50の物語 第15話 「東京・中野のオキナワ」

その中でも、特に盛んな地域が東京都中野区です。しかし、なぜ沖縄から遠く離れた中野区でエイサーが盛んに行われているのでしょうか。そこには復帰前の若者を支えたある場所の存在とその役割を繋いできた人たちの思いがありました。

東京都中野区。コンサート会場としても有名な中野サンプラザがランドマークとして駅前にそびえたっています。この中野区でなぜエイサーが盛んなのでしょうか。そのヒントは、多くの飲食店が立ち並ぶ駅に近い通りにありました。

復帰50の物語 第15話 「東京・中野のオキナワ」

上原慶さん「ここの昭和新道の通りでエイサーの道じゅねーをしたのが、中野チャンプルーフェスタのきっかけになったんですよね。それが2004年の出来事だったんですけど、2005年から中野チャンプルーフェスタを開催して、今では中野区の観光資源になっています」

通りを案内してくれたのは、沖縄市出身で中野区エイサー連合会の代表を務める上原慶さん。上原さんの話す中野チャンプルーフェスタとは中野区で毎年行われているイベントで、2日間にわたってエイサーを中心に、和太鼓などの演舞の披露や様々な催しが行われます。

およそ10万人が来場するこのイベントはいまや中野区の夏の風物詩となっています。その発祥となったこの通りには、数店舗の沖縄料理屋も店を構えていて、どこか沖縄を思わせるような風景も。エイサーだけではなく、沖縄を思わせる雰囲気を持つ中野区。そのきっかけは復帰前の1970年にさかのぼります。

上原慶さん「「沖縄郷土の家」というのを中野区に金城唯温さんが委託されて開設した。各沖縄県の市町村にも東京に行ったら、中野区に沖縄郷土の家がありますよということで地図と住所と電話番号を広告に出していたので、それで沖縄の人が集まるきっかけになったと言われている」

中野区が1970年に政策として地方出身者のために開設することにした郷土の家。最初に3つの県の郷土の家が開設されることになりましたが、そのうちの1つが沖縄郷土の家。当時の中野区の区報にも郷土の家を紹介する記事が掲載されています。

その沖縄郷土の家の開設を中野区から委託されたのが、県出身で中野区に住んでいた金城唯温さんでした。

復帰50の物語 第15話 「東京・中野のオキナワ」

中野区から委託を受けた金城さんは、毎週日曜日に自宅を開放し集団就職などで沖縄から上京してきた若者たちに無償で居場所を提供。東京になかなかなじめない沖縄の若者たちの心の拠り所となっていました。そこに集まっていた若者も沖縄県人会の青年部の立ち上げに参加し、エイサーなどを行うようになりました。

また中野に定住する人がいたことで今でも中野区に沖縄の文化が残り続けています。上原さんも上京後に、中野に根付く沖縄の文化に出会い、今では「中野のオキナワを語り継ぐ」プロジェクトでその歴史などを伝え、中野のオキナワを繋ぐ役割をしています。

沖縄郷土の家に始まり、先輩たちが繋いできた中野のオキナワに出会って今に至る上原さん。次の後輩たちにもウチナーンチュの居場所をつなげていきたいと話します。

上原慶さん「先輩方とやってきたことは変わらずで、これからもウチナーンチュが東京に出てくると思うんですよね。その時に僕らが居場所をきちんと作ってあげたら、ウチナーンチュのまま、そのままで東京で活躍することができると思うので、東京に染まるのではなくてウチナーンチュらしく発信していけるように、後世の後輩たちが自分のまま活躍できる場として残していければと思っています」

復帰50の物語 第15話 「東京・中野のオキナワ」

上原慶さん「僕らの世代で中野の先輩方がウチナーンチュここにきていいよという場所が作られていたのに、僕らの世代で消すわけにはいかないので」

復帰直前に金城唯温さんが沖縄の若者のために提供した居場所。郷土の家がなくなった今も、ウチナーンチュの居場所をつなげようという思いは、復帰から50年経った今も残り続けています。