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うるま市具志川の川崎地区にアメリカ軍機が墜落した事故からきょうで56年です。これまで語られることの少なかった川崎ジェット機墜落事故、事故に巻き込まれ大けがをした男性が当時の記憶を子どもたちに語り、平和への思いを託しています。

平和集会「この川崎ジェット機事故を風化させないことを願い、県内の人にこの悲惨な事故があったということを知ってもらいたいです」

うるま市にある川崎小学校で今朝行われた平和集会。56年前のきょう、ここ川崎地区にアメリカ軍機が墜落した悲惨な事故について学び、語り継いでいく気持ちを新たにします。

児童「戦争がなく、ジェット機も飛ばない平和な世の中をつくっていったらいいと思いました」「命の大切さがわかりました。後輩たちにちゃんと伝えていけるように頑張っていきたいと思います」

川崎ジェット機墜落事故 平和な沖縄へ 語り継ぐ記憶

川崎ジェット機墜落事故。1961年12月7日、嘉手納基地を飛び立ったアメリカ軍のジェット機が離陸直後にエンジンが故障し、操縦不能に陥りました。パイロットは脱出したものの、無人となった機体は炎をあげながら集落に墜落しました。周囲の住宅が全焼、墜落した機体が周囲に散乱してこの事故で2人が即死、6人が負傷する惨事となりました。

金城善孝さん「炎にまかれて火傷を負った。運がいいといえばいいけど、生きてるだけで。運が悪いといえば悪い」

川崎ジェット機墜落事故 平和な沖縄へ 語り継ぐ記憶

当時の写真とともに、墜落事故を振り返るのは現在63歳の金城善孝さん。事故に巻き込まれた時は小学1年生で、友達と一緒に学校から帰っている時でした。

金城善孝さん「(米軍の)飛行機が落ちて、このエンジンが俺の後ろをかすめていっているわけよ。それの熱風と一緒に。自分はもうどうなっているかわからない心境で。パニックで熱いのか何なのかも…」

善孝さんは、飛んできた機体のエンジンの直撃は免れましたが、顔と手に大きなやけどを負ってしまいました。

金城善孝さん「毎回、包帯を替える時もかさぶたが包帯についてはがす度にもう(痛くて)。これが嫌。3日に1回は取り替えていた」

川崎ジェット機墜落事故 平和な沖縄へ 語り継ぐ記憶

顔は水ぶくれで腫れ上がり、目が開くようになるまで3ヵ月を要し、病院での入院生活は8ヵ月に及んだといいます。

児童「オスプレイが墜落したニュースを見てどう思いますか?」金城善孝さん「名護市)安部の海岸でしょ、キャンプも一回はやったことあるんだよ家族で。それ(オスプレイ)があそこに落ちたもんで怖い」

川崎ジェット機墜落事故 平和な沖縄へ 語り継ぐ記憶

あの事故から50年以上過ぎた今もアメリカ軍による過重な基地負担、それにより繰り返される事件や事故がなくならない現状に心を痛めている善孝さん。これまで自分の口から多くを語って来ませんでしたが、アメリカ軍機が沖縄の空を飛ばない平和な沖縄にしてほしいと願って、子どもたちに自分の体験を伝えるようになったといいます。

金城善孝さん「事故があったあれ(記憶)を薄れさせないがために、根付かす。いつ何時、どの飛行機がどこに落ちるかもわからんけど、そうならないがためにみんなに話してしておかないとよ」

児童「世界の人々が平和に生きていくためには何が大切だと思いますか?」金城善孝さん「みんなの平和を願う団結心が大切だと思う。1人でも多く、大勢の人がそう願ってほしい」「もし、こっちに、俺なんかがいたらどうなっていたんだろうって、それぐらい思わんとダメだよ」

児童「こんなに被害者も出ているのに、宮森小(の事故より)小さい、知られていない、まだ、知ってない人の方が多いっていうから、(善孝さんの話を)大切にしないといけない、もっと知らせないといけない」

金城善孝さんの孫・山入端乙音さんの手紙「エンジンから火を噴いたジェット機が起き爆発した炎と熱風でおじいちゃんはとてもひどい大きな火傷を負いました。この大きな事故で亡くなった人が2人もいて、生き残れたおじいちゃんは奇跡の人なんだなと思いました。私は事故のない平和な沖縄になってほしいです。だから、川崎ジェット機墜落事故についてもっとみんなに知ってもらいたいと思います。おじいちゃん、生きていてくれてありがとう」

事故を自分のこととして考え、風化させることなく伝えてほしい平和を願う善孝さんの思いはしっかりと届いていました。

川崎ジェット機墜落事故 平和な沖縄へ 語り継ぐ記憶