※ 著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。
14-10-22-repo2-01

今月15日で、北朝鮮の拉致被害者が日本に帰国して12年になりますが、実は、県内にも拉致の可能性が疑われる行方不明者が33人います。

20年前、突然消息が分からわなくなった肉親の帰りを信じて待ち続ける家族に、今回初めて思いを聞きました。

仲桝忠吉さん。マグロ漁船の船長だった彼は、同僚からも慕われる、誠実な人柄でした。

忠吉さんの妻「2月の10日に戻ってくるからねって言って出て行ったんですよ。10日過ぎても戻らん、遅くなるんだね。と思っていたんですけどね。」

1994年1月、忠吉さんが船長を務める「第15武潮丸」は乗組員7人を乗せ、泊漁港を出港しました。港で見送った家族は、旧正月のころには元気な姿で再会できると信じていました。

忠吉さんの妻「今忠吉たち、今船連絡とれないから。(と言われて)え、連絡とれない?どうしたかね、と思ってですね。」

消息が途絶えた武潮丸について報じる当時の新聞。「無事に帰って来てほしい」という家族の祈るような気持ちが見出しになっています。しかし、何日経っても手掛かりひとつ見つかりませんでした。

当時23歳だった忠吉さんの長男(44歳)。とても優しい父親だったと記憶しています。

忠吉さんの長男「あんまり子供たちには怒らなかったね。とても子煩悩でしたね。(小さいころ私は)わがままだったんだけど、それでも諭すっていうのかな。」

忠吉さんの妻「子煩悩でしたね、優しい。本当に主人はねもう本当に頭がよくて、腕がよくって情があって、とっても子供思いで素晴らしい人でしたね。」

しかし、何年経っても帰ってこない肉親を待つ家族。失踪から8年目。わが子の生存を願いつつ、心に整理をつけようと家族は忠吉さんの位牌を作りました。

忠吉さんの妹「うちの母が、もしかして亡くなっているかも知れないから、そのままではかわいそうだから、供養してあげようって。」

あきらめかけていた家族が、忠吉さんの失踪を拉致ではないかと疑い始めたのはちょうどその直後でした。

2002年10月15日。飛行機のタラップを降りてくる拉致被害者の姿を映すニュース映像に、「忠吉さんもいるのでは」そんな期待がよぎったのです。

忠吉さんの妹「もしかしてうちのお兄さんも北朝鮮に連れていかれたかな?っていうのがあったんですよ。」

今まで考えもしなかった、拉致問題。それが、一気に身近なものになったといいます。

忠吉さんの長男「拉致されて、収容所とかに入れられてつらい生活とかしてたら(と考えたら)やっぱり心が痛くなるんですよ。思い出したりとかして、お父さんご飯食べてるかな?とか。」

忠吉さんの妻「食事するときはね、いつもあのお父さんに先にね、まずは元気でね向こうでひもじい思いしていないかねいうて、お父さんご飯の時間ですよ。どうぞあがってくださいってね、先にお父さんにあげて。」

仲桝忠吉さんは「拉致の可能性を排除できない」行方不明者として、県警のホームページで公表されています。拉致問題に関する動きをニュースでみるたびに、父親に帰ってきてほしい、20年の時間を埋めたいという思いがさらに募ります。

忠吉さんの長男「お父さんお酒が好きだったんで、お父さん帰ってきたら晩酌やってみたいなって思いますね。20年分の話教えたり、どんな生活どんななったよ、とか、お酒飲みながら話したいとは思います。」

忠吉さんの失踪から、20年。95歳になった母、千代さんは、今でも、忠吉さんを待っています。

忠吉さんの妹「もうあれなんですよ。忠吉のことはよく言っていましたよ。にーにー、にーにー、にーにーは帰ってこないかね?って言って。」

「帰ってくる」と言ったまま、戻ってこない家族を待ち続けて20年。忠吉さんとの再会を願いつつ、拉致問題の動きを見つめています。