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日本維新の会、橋本代表の「慰安婦制度は当時必要だった」という発言に県内でも大きな反発の声が上がっています。その背景にあるのが、多くの人が証言するように沖縄でも戦争中に多くの慰安所が作られ、女性たちが辛い生活を強いられてきたという事実です。

戦争中、朝鮮半島から沖縄に連れて来られ、戦後も故郷に帰れず孤独な生涯を送った1人の女性を紹介します。

キム・ソスプさん「とっても質素だけど、清潔なね。大変な体験したから、反作用でキレイにしたいというのがあったんだろう」

男性が振り返るのは22年前、那覇市内でひっそりと生涯を終えた女性のこと。女性はペ・ポンギさん。ペさんは1944年、朝鮮半島から渡嘉敷島に連れて行かれ、日本軍の慰安婦として働かされました。「南の島に行けば、お金が儲かる」そう言われたのです。彼女の存在が知られたのは戦後30年も経ってからでした。

キムさん「サトウキビ畑の中に農具を入れる掘立小屋がある。そういう所で生活していました。一人間として、一女性としては考えられない精神状態と言いますか。人間忌避症にかからざるを得ない状況だった。誰が行ってもまともに話そうとしない。会おうとしない」

沖縄戦当時、県内には約140カ所もの慰安所があり、朝鮮半島や沖縄、そして九州の女性たちが働かされていました。

吉川嘉勝さん「韓国から来て、非常に色が白くてすっきりしたお姉さんたちを見て、子ども心にもね、キレイなお姉さんたちだなと、そういう印象が強かった」

ペさんは一日に何十人もの相手させられ、道具のように扱われたという壮絶な生活を証言しています。そしてその体験はペさんの心に暗い陰を落としていました。

キムさん「彼女は悲惨な生活をしていたから、その反作用だろうと思うのですが、小屋の穴をタバコの銀紙で全部ふさいでいる。何もないところでじっと心と体の痛みに耐えながら。余りにも苦しい時は、自然に声が出るんですね、大声でしたよ。何を叫んでいるのか、たらいを棒で叩きながら、大変苦しみに耐えながら目撃しました」

アメリカ軍の激しい攻撃に晒された渡嘉敷島。慰安所の女性たちも含め、多くの人が犠牲になりました。戦後、朝鮮半島の女性たちの多くがアメリカ軍によって祖国に戻されましたがペさんは帰れず、戦後も苦労を重ね、孤独に沖縄で生き続けました。キムさんは彼女が故郷を思って泣く姿を一度だけ見たと話します。

キムさん「気持ちの問題が一番引っかかったと思います。ペさんは悲惨な気持ちがどうしても心の底にあるものだから、心の弱みがあるから、行ってみたいけど足が伸ばせないというか。行ってみたいさーねと言いながら、あれだけ大泣きしたんだと思います」

ペさんの遺品。わずかな食器や衣類など、慎ましい生活ぶりを物語っています。そしてここに貴重な彼女の歌声が残っています。

平穏な家庭におさまって、慎ましく生きる女性の姿がうたわれています。戦争に人生を狂わされ、死ぬまで苦しめられた女性。彼女は悲惨な体験を人々に語ることで生涯、そして亡くなった後も私たちに戦争のない社会をつくってほしいと訴えてたのです。

ペさんの生涯を振り返ると、慰安婦制度というものがどれだけ女性を傷つけ、人生を台無しにしたのかがわかります。彼女たちは慰安婦制度は犯罪同然で、日本政府は過ちを認めてほしいと訴えているわけで、そんな女性たちの存在を無視し、制度を肯定するのは被害を受けた者にとっては大変屈辱的なことですし、私たちにとっても何の学びにもなりません。今回の問題を機に、私たちも考えを深めたいものです。