※ 著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。

1952年、4月28日。サンフランシスコ講和条約が発効した日。この条約により、独立を果たしたとされる日本。しかしその一方、条約は、沖縄と奄美などをアメリカ軍の下に、置き去りにするものでした。

鹿児島県奄美市。かつては沖縄と「兄弟島」とも呼ばれたこの島でも激しい復帰運動が繰り広げられました。

鹿児島県奄美市。本土との自由な渡航が許されなかった時代、住民の生活は困窮を極めます。人々が復帰を願うのは当然の流れでした。しかし、1952年の4月28日、その思いは裏切られました。

島の博物館に、同じ日に地元の中学生たちが書いた作文が残っています。

「その時の大島の人のなげきは、言葉で言い表せない位でした。」

祖国の復帰は喜ぶべき事としながらも、綴られているのは置き去りにされた衝撃。しかしその一方・・・。

「大島の人々がなみだでぬれている時、われわれの母国であった日本が独立したというので、大島の人々は元気を出して涙をふいた事でしょう」

作文を書いたのは、現在歯科医院を営む長山煕(ながやまひろむ)さん。当時、中学1年生でした。

長山さん「かわいいねぇ。ひらがななんか使ったりして。『痛ました』って何それ?はずかしい(笑)」

この頃の奄美では、住民が断食をして復帰を訴えるハンガーストライキが行われたり、ほぼ全ての住民の署名を集めた復帰嘆願書がつくられるなど、復帰への熱が高まっていました。その背景には、そう遠くない将来、自分たちも祖国に帰れるのではという思いがあったからだといいます。

長山さん「あーよかったぁー。親がしっかり出発できるんだといったら、子どもとしては、じゃあいずれ良い意味でのあれはあるだろうと期待しますよね。」

長山さんには、復帰を願う人々が歌った印象深い歌があります。

長山さん「素晴らしい歌があるんですよ。『太平洋の潮音はわが同胞の血の叫び』とかいう良い歌があるんですけどね。」

崎田さん「なつかしい。メロディーは軍歌っぽいけど、復帰運動の中で歌うと勇気を鼓舞する歌でした。」

奄美の復帰運動のリーダーのひとり、崎田実芳(さきださねよし)さん。この校庭の石段は、奄美の復帰運動が始まった場所。今でも鮮明に、あの日のことを覚えています。

崎田さん「それはもう屈辱ですよ。戦争終結にあたるべき講和条約という最終の段階で、他の国の軍事支配を認める国がある。でも、反面ではそれだから闘いは今が大事だと。」

崎田さんの闘いは翌年、奄美が沖縄に先立ち復帰を果たした後も終わりませんでした。

これは、1963年から69年の毎年4月28日、沖縄と奄美を隔てた国境線で開催された海上集会。奄美と沖縄の人々が当時の国境線に集い、「沖縄を返せ」と声を上げたのです。

奄美が沖縄の復帰を願った理由のひとつには、奄美の本土復帰により、沖縄に住む奄美出身者が、一夜にして「外国人」として扱われた状況があります。

崎田さん「群政府は500名の公務員全員解雇。それから、商売人は公的な金融機関の利用をさせない。矢継ぎ早にそういうの出す」

当時沖縄にいた6万人とも7万人ともいわれる奄美出身者。彼らは「非琉球人」となったことで、公職から追放されたり選挙権を制限されたほか、「在留許可証」の所持を義務付けられるなど、様々な差別を受けたのです。

奄美と沖縄の間に生じた国境線だけではない分断。崎田さんは、4・28から始まった

こうした歴史に翻弄されてきた私たちだからこそ今声を上げることが重要だと語りかけるのです。

崎田さん「沖縄奄美の世論を盛り上げて、日本全国の世論にしなくてはいけないと。そこに沖縄の強み、奄美の経験というのがあるんじゃないか。」