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65年前のこのころ、収容所から戻った少年が見たのは、地上戦の犠牲になった住民の姿でした。

渡久地昇永さん「毎日もう10名ぐらいの人が亡くなって」

1945年6月、アメリカ軍が名護市辺野古に設置した大浦崎収容所に、当時14歳だった渡久地さんは母親と3人の弟、妹とともに収容されました。収容所ではマラリアが発生。またたく間に蔓延し、半年でおよそ400人が亡くなったといわれています。

渡久地さん「(寒がって)震えるんですよ、マラリアというものは。そしてもう毛布をかぶせて、あるもの全部かぶせて」

11月初旬に家に帰ることが許され、家族とともに本部町に戻った渡久地さんが見たのは、破壊された家、そして地上戦の犠牲になった住民の姿でした。

渡久地さん「3名でしょ、4名,5名死んでいたんです。(米兵が)門から入り込んできて、パラパラーっと音を立てたもんだから『大変だ』って逃げたらしい。そしたら後ろからやられてるんです。(それとは別に)そこに男の人が1人死んで、膨れていました。女の人が1人またこっちに」

渡久地さんは、沖縄の現状を見つめ、警鐘を鳴らします。

渡久地さん「自衛隊はいるし、米軍はあいかわらずいる。憲法第9条もだんだんおかしくなってきている。(日本は)軍国主義教育みたいなものが甦ってきたような感じがする」