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深い青い色を生み出す琉球藍は澄んだ水のある所にしかありません。豊かな自然を象徴する藍を育てている名護市大湿帯に住む夫婦の生活をご紹介します。

名護市の大湿帯。上山和男さんは奥さんとともに家畜を飼い、みかんや野菜を作りながら琉球藍の栽培から染までを行っています。

上山さん一家が大湿帯に引っ越したのは29年前。電気も水道も通っていなかったこの土地に移り住んだのは復帰直後。みんなが本土並みを目指して突き進む中、名護市の幹部が語ったある言葉に心を揺さぶられたからでした。

上山和男さん「自然が最も大きな富の源であって、それと人々の営みと歴史、これでもって沖縄は日本の平均と比べてどちらが豊かかといわれたら、沖縄の方が豊かかもしれないよと。その考え方にひかれたわけ」

上山弘子さん「電気も電話ない中で、それこそ保存方法から魚、肉を塩漬けにしたり。楽しかったわね、最高に楽しかったです。何もないところから作っていくわけですから」

収穫した藍草は水につけて発酵させ、石灰を加えて「泥藍」と呼ばれる状態にします。石灰の量やそれを入れる時期を判断するのが一番の難題。経験と勘だけが頼り、化学薬品は一切使いません。

上山和男さん「自然だから、自然の作用をどれだけ人間が理解するかが、人間の力。だからやっぱり人間の力なんだよね。自然を変えることはできないけど、自然をどこまで理解することができるかは重要なんです」

泥藍にもう一手間加えると染料に。生地や糸を染めるのは弘子さんの担当です。弟子が師より優れていることを指して「青は藍より出でて、藍より青し」という言葉がありますが、まさに藍は、それ自体はグリーンなのに、糸や布に染まると深みのある青色に変わるのです。

上山弘子さん「この色にははっとさせられるのね、出来上がっていくと。自分の大地から生まれたというのがある」

戦前、名護や本部、国頭ではサトウキビと並ぶほど藍の栽培が盛んでした。

北部の水源の一つ、羽地ダム。ダムの建設が始まった12年前、この辺りの集落調査を行った島袋さんは、藍は山の生活に欠かせないものだった話します。

島袋正敏さん「寄留してきた人たちには土地がない。険しい山の暮らしの中で、まず始めるのは藍作り。藍は生産物として換金する、お金のためのもの。もう一つは自家用として、自分たちで繊維をとってこれを織って染めて自分たちで着けるという、その両面があったと思います。(藍は)暮らしの中できちっと生きていた」

山の暮らしに息づいていた藍。しかし戦後は化学染料におされ、また地域振興という名目で次々に山が開発されて衰退しました。今は開発を逃れたヤンバルの一部で、ごくわずかな人たちが受け継いでいます。

上山さん夫妻は魚を守ることは海を守ること、そして藍を育てることは山や森を守ることだと話します

上山弘子さん「全ての源の森や山を潰しては何もできない。藍を守ろうというのがシンボルで、本当のテーマは自然環境を守ろうということなんですね」

29年前にご夫婦を動かした「自然こそが最大の富の源」という言葉は、亡くなった岸本前名護市長の言葉だったそうです。名言ですね。

その豊かさを維持できる生活と食いつぶす生活の2種類があるとすると、藍を育てる暮らしというのは豊かさを実感でき、さらにそれを維持できるスタイルなんですね。色々教わることがあります。美ら島からの提案でした。