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県内のほとんどの自治体で、核兵器廃絶平和都市宣言が行われています。この宣言は1980年代の東西冷戦のさなか、イギリスのマンチェスター市が核兵器の脅威をなくすため、自らのまちを非核兵器地帯であると宣言したのが全世界に広まったといわれています。非核平和都市宣言を通し、あすの憲法記念日を考えます。金城記者のリポートです。

核をつくらず、持たず、持ち込ませずという非核三原則。戦争の放棄を柱とした憲法の精神を具現化するものとして、全国で1444の自治体が、県内では38の自治体がこの核兵器廃絶平和宣言を行っています。

2004年、那覇市の銘刈庁舎で記念植樹が行われました。翁長雄志市長らが植えたのは、広島と長崎の原爆で被爆したアオギリとクスノキの被爆2世の苗木でした。

元那覇市議(民社党)・松茂良興辰さん

「本土並み、核抜き返還を党是としていたもんだから、それを具体化するための平和、人権、憲法擁護はぜひ実現しないといけないと思って。全会一致にするために私は舞台裏で動きました」

那覇市議会は1984年に、核兵器廃絶・軍縮と平和宣言を議員提案で可決しています。そして86年、親泊康晴市長が、国連憲章と日本国憲法に基づき核兵器廃絶平和都市宣言を行うため、議会に提案しました。

親泊市長には、核兵器廃絶は憲法の根幹をなすものだという強い思いがあったといわれます。

元那覇市助役・備瀬政太郎さん

「日本復帰というものによって、権利の回復と人権の回復と生活の安定、福祉6法というものの中に、憲法下に入ることによって、我々は生活が安定していくと」

備瀬さんは、米軍の民政府労働局に勤めながら、ゼネストに職員を引き連れて参加。このため職を追われ、その後、親泊市長の下で収入役、助役を務めました。

アメリカ軍の圧政の中で平和憲法を望み、復帰後は平和憲法を住民の暮らしの中に生かすため、非核平和宣言はその役割を担ったと、備瀬さんは考えます。

元那覇市助役・備瀬政太郎さん

「2期目の時に平和宣言、核廃絶を宣言したのは親泊さん。与儀公園に(憲法)9条の文が刻まれている」

当時、那覇市議1年生の平良長政さんは、親泊市長提案の核兵器廃絶平和都市宣言をめぐり、議会で賛成討論を行いました。

元那覇市議・平良長政さん

「多くの都市が非核自治体宣言などをして、そして親泊市長が提案して、この宣言ができたわけですが」

宣言は、野党の保守系議員が退場して全会一致にはならなかったものの、賛成多数で決議されました。

元那覇市議・平良長政さん

「またぞろですね、憲法を改悪して戦争へまた突き進もうという動きに、本当に憤りを感じますね」

元那覇市議会議員の松茂良興辰(まつもら・おきたつ)さんは、議会で軍縮宣言と核兵器廃絶宣言の決議に立ち会ったことを誇りに思っています。

元那覇市議・松茂良興辰さん

「政治家はこれを守らんといかん。そのために憲法改正とは何ごとだと。私は唯一の被爆国として守らなければいけない絶対の使命として考えております」

「平和憲法の理念に基づき、核兵器廃絶の象徴となっっている被爆2世のクスノキとアオギリ。この2つの木は現在の憲法改正論議をどのように見ているのでしょうか」

国会では、憲法改正の手続き法、国民投票法案が可決され、憲法改正に向けた動きが加速しています。平和憲法を拠り所に核兵器廃絶宣言に携わった人たちの思いを受け継ぐのは、今を生きる私たちの責務ではないでしょうか。以上、Qリポートでした。