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130人分の90人。この数字は70年前の沖縄戦にわずか14歳から17歳で「鉄血勤皇隊」として駆り出された130人の生徒のうち、学業半ばで命を奪われた生徒の数です。きょうは、生き残った男性の記憶をたどりながら、当時の教育を考えます。

石川榮喜さん「当時は(1945年4月)首里まで爆弾が落ちなかったもんだから、(友人達は)寮の炊事場の押入れに寝たんですよ。その日に限って直撃くらいましてね。燃え尽きてしまった。」

現在の首里高校の前身・県立第一中学校の生徒だった石川榮喜さん。米軍が上陸した直後の1945年4月12日、石川さんたち生徒が寝泊りをしていた学生寮に米軍の砲弾が直撃、3人が亡くなりました。それから1ヶ月もたたない5月4日、再び米軍の砲弾が学校に直撃、友人だった安里さんが死亡しました。

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石川榮喜さん「亡くなった安里清次郎はここから貫通しまして砲弾が。はらわた全部飛び出してましたよ。血に染まって。私はもうはらわたが出たから駄目だ。駄目だ。と言いながらこう(おなかを)押さえて」

友人が息絶える姿を昨日の事のように話す石川さん。しかし、その友人の死を見ても石川さんや仲間達の目に涙はありませんでした。そこには、徹底した軍国教育があったからです。

石川榮喜さん「全身素直に打ち込まれてるんですよ。自分も後に続くんだと。小学校、国民学校の時から男子生徒、皆に希望を受け持つ先生が聞いたら全員そろって「軍人になります」でしたよ。1人残らず。あなたの希望といったら「軍人になります」でした。」

米軍が上陸する直前の1945年3月28日、一中では、軍の命令により「鉄血勤皇隊沖縄一中退」が編成され、当時14歳から17歳の生徒が戦場に招集されました。

那覇市首里にある養秀会館。この場所には沖縄戦で亡くなった生徒達の資料が展示されています。資料室には当時、生徒が学校長に提出した爪や頭髪などが今も残され、当時、彼らが綴った遺書も残されています。

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「自分は鉄血勤皇隊の一員として一生懸命頑張り一身を鴻毛の軽きに措き御国の為に散る覚悟であります」

石川榮喜さん「(命は)自分のものでもない、親のものでもない。天皇陛下のものです。誇りを持って答えましたからね。教育がもう徹底されているから教育で。本心ですよ。うわごとではない。作りものじゃないです。」

戦争が激化する中で米軍の激しい攻撃により一中があった首里は陥落、鉄血勤皇隊の炊事班だった石川さんも先生や仲間達と一緒に南部へ逃げたといいます。南部に避難してからの毎日は遺書に書いた事とは違い、生きるために必死だったと話します。

石川榮喜さん「(仲間が)倒れたらもう助けもしないです。助けようとすると自分がやられるほど激しい戦争。親子でも見捨てていかざるえない。助かりたいのは自分だけ。他のものは助ける認識はない。自分だけ。自分の命だけ」

島尻のガマに隠れていた石川さんは、戦争で死ぬ事を覚悟し、毎日3つの事を考えていたといいます。

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石川榮喜さん「(死ぬ前に)澄み切ったコップ一杯の水が飲みたい。大の字で寝たい。(死ぬ時は)痛みを感じさせないで死にたい。この3つの事を祈りながら眠りについたんです。毎晩。それほど厳しかったですね」

生き残った石川さんは、戦後、教員となりました。学校で教え子達に自らが体験した沖縄戦を語り継ぎました。そんな石川さんの目に戦後70年の今はどう映っているのでしょうか。

石川榮喜さん「今でも沖縄は捨石にされてるこの認識を県民全員が私は強く認識しなければいけないと思うんですよ。同じ日本の国で私達のうちなーだけですよ。あの戦争でそういう苦しい思いを住民がやったのは。このウチナーだけ。今でも捨石にされてる。沖縄は。県民は。」