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戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦

ハンセン病療養所である名護市愛楽園内に今年、新たにハンセン病の歴史を伝える交流会館がオープンしました

そこには差別と偏見の歴史が綴られています。特に沖縄戦当時は愛楽園の人々は過酷な状況に追い込まれたといいます。

沖縄愛楽園自治会長・金城雅春さん「手足の麻痺している(ハンセン病)患者がみんな壕堀りしたために、こういう手になって。貝塚の層を掘らすというんもは非常に無茶だろうなと。結局(貝は)刃物ですから死になさいと一緒なんです。ハンセン病の人たちにああいうことさせるというのは、傷もできてしまって刃物ですのでね」

戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦

沖縄戦が始まり、当時ハンセン病患者はさらに過酷な状況に置かれました。

ハンセン病は、長い間、不治の病と誤解され、1907年に隔離政策が始まったことから、患者は戦争が始まっても療養所から逃げられない状況となり、敷地内に壕を堀るしかありませんでした。

戦後70年の今年、園内には愛楽園入所者の証言を展示する交流会館が開館し、戦前から今まで、ハンセン病患者の人々が辿ってきた厳しい状況を伝えています。

戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦

平良清蔵さん「あまり見たくないんだよ。みんな苦労しているから」

当時、壕堀り作業をさせられた男性が今も愛楽園で暮らしています。

元ハンセン病患者の平良清蔵さん(91歳)。戦時中は21歳でした。

平良清蔵さん「みんな一生懸命、自分たちの入る壕だから、命がけで壕も掘った。足に傷作ってね。悪くなって足切ったりした人もいるわけよ。我々(ハンセン病患者)にとっては、大変だったわけよ」

戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦

壕堀りで傷ついた手や足のけがが悪化しても、治療が受けられない環境。また、十分な食糧が与えられなかったため、栄養失調やマラリアなどで次々と倒れ、愛楽園では317人の命が奪われました。

平良さん「病棟にいる人はね、もう弱って体力もないからね。自然と栄養失調で亡くなって。亡くなったらね、棒でかついで浜に埋葬しにいくのを見たらね、本当もう可哀想で」

平良さんが目にした悲惨な光景の数々。自身も、いつ死んでしまうのかと、恐怖に襲われていました。

戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦

ここに当時の証言集があります。元ハンセン病患者の悲痛な声が聞こえてきます。

『「弱い人は死ぬしかない」手足が悪い人は飢え死にするしかないよ。そのまま弱っていくわけさ。亡くなる人いっぱいいたよ。戦争のときは弱いのはみじめ』

金城さん「結局、戦争になってくると、強い者は我勝手に動けるんですけど、弱い者は動けない。一番弱者が大変な思いをしてしまうというのが戦争だと思う」

言われなき差別の病。そして沖縄戦。2つの地獄は平良さんの人生を狂わし、家族を奪いました。

平良さん「この病気はね、嫌われた病気ですからね。家族から見放されて。長い間ですね、親からはなされて。いつも淋しい思いをしてました」

戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦

愛楽園には今も182人が暮らしています。隔離政策は廃止されましたが、社会に出たくても出られないのが現状です。

差別と偏見、そして戦争がいかに弱者を苦しめるのかを知ってほしいと金城さんは話します。

金城さん「ずっとここで一生過ごさないといけないという状況がある。隠れて生活しているというのが非常に残念でならない。(元患者が)世の中を歩けるようにしていきたいというのが私たちの夢」