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80年前のきょう、この島では沖縄戦で最大とされた激戦が行われていました。日米がともに「勝敗の鍵を握る重要な場所」としていた”シュガーローフの戦い”です。今も静かに眠る戦没者たち。その遺骨を拾い続ける男性が抱く願いとは?

38年前にアメリカ軍から全面返還され今や多くの建物が並ぶ那覇市おもろまち。その一角にある小さな丘は沖縄戦で最大とされた激戦の舞台でした。

”シュガーローフの丘”は日本軍にとって首里に置かれた司令部を守る重要な拠点。それはアメリカ軍にとっても沖縄本島での勝敗を握る要所とされました。

シュガーローフの戦い1945年5月12日からの約1週間で5000人以上が戦死したとされる。凄惨な戦いは1週間ほど続き日米の5000人以上が戦死したとされています。

たどる記憶つなぐ平和#16「激戦の痕が残る遺骨に心を向ける男性」

これまで43年に渡り、沖縄戦で亡くなった人々の遺骨を収集してきた具志堅隆松さん。集めた遺骨は300人以上、2009年には開発が進んでいた那覇市真嘉比で172体を掘り出しています。

ガマフヤー具志堅隆松さん「あの部分(那覇新都心)はぎりぎり救出できたと思っている」「少し緑地帯が残っていて(遺骨は)そこにもある」「南部に戦没者の遺骨がたくさんあるかというと遺骨が残っているのは未開発の緑地帯」「開発されて畑や住宅地になっているとかほとんど残っていない」

真嘉比で見つかった遺骨のうち5~6体は埋葬されたものとみられ具志堅さんは仲間の兵隊が埋めた上官と考えています。

ガマフヤー具志堅さん「終戦直後は(本島)南部はどこでも遺体や遺骨だらけだった」「南部の人たちが収容所から解放されて帰ってきて最初に手がけたのは遺骨収集」「自分の屋敷にも道路にも畑にもたくさんの人が死んで骨になっているので遺骨を収容しないことには生活が始められなかった」

今、具志堅さんが作業しているのは糸満市にある小高い森の中。その現場に案内してもらいました。草木をかき分け道なき道を進むこと20分。そこにはブルーシートに覆われた遺骨が。

ガマフヤー具志堅隆松さん「すみません。きょうはあなたの身元を判明させるために報道の方に呼びかけてもらおうと思っています。ここで埋葬することに関わった人たちが名乗り出てくれることを期待しています」

たどる記憶つなぐ平和#16「激戦の痕が残る遺骨に心を向ける男性」

この遺骨も埋葬されたとみられ埋められた骨としては真嘉比以来、16年ぶりに見つかったものです。周辺からは小銃の薬きょうや軍服のボタンも見つかっていて歯や骨の状態から20歳くらいの旧日本兵の可能性があります。

ガマフヤー具志堅隆松さん「これが腐葉土で戦後に形成された黒い土。ここまでは掘ってある。28センチくらいまでは掘っている。当時亡くなって亡くなったまま横たわっているのであればこの土(腐葉土)にあるはず」

さらに具志堅さんは遺骨やその周辺にあるものを細かく分析。戦死した当時の状況に思いをめぐらせます。

ガマフヤー具志堅隆松さん「上あごが中にめり込んでいる。顔面が中に陥没してしまっている。多分これが顔面を割った石だろうな。顔面を直撃してつぶれて亡くなっていると思う」

遺骨の声なき声に耳を傾けその人が抱えた絶望や苦しみに思いを馳せる。それを続ける具志堅さんはたったひとつの願いを抱いています。

ガマフヤー具志堅隆松さん「一番の願いは二度とこういう犠牲者が出ないように。戦争を二度としないというそれに結び付けたいと思っている。日本は二度と戦争はしてはいけない」

遺骨は糸満市の束辺名(つかへな)壕の辺りで見つかっていて具志堅さんは「この方の名前が知りたい」と話しています。もし埋葬した記憶があるという方がいれば私たちに連絡をいただきたいです。今、具志堅さんが心配しているのは”南部の土地が採石場になること”遺骨と遺骨を収集する場が同時になくなってしまうからです。

防衛省には”辺野古埋め立てに使う土砂を採取する計画を撤回すること”県には”緑地帯を県有地として買い取ること”を求めています。そして後世に遺骨収集を続けてほしいと考えています。

たどる記憶つなぐ平和#16「激戦の痕が残る遺骨に心を向ける男性」