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特集です。81年前、石垣島である女子生徒が空襲で亡くなりました。学校を卒業することなく亡くなったため、記録には残っていないといいます。今回、郷土の歴史を調べてきた男性とともに、数少ない当時を知る人を訪ね、その生徒が生きた痕跡をたどりました。

きのうの糸満市摩文仁、平和の礎。今年、新たに95人の名を刻んだ刻銘版が設置されました。沖縄戦などで亡くなった、24万人以上の名を刻む礎の中で、一人の名前があります。「備瀬節子」さん。石垣島の学校で授業中に空襲にあい、米軍機の機銃掃射で亡くなったと伝えられています。

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

備瀬さんが通っていたのは、八重山農学校。現在の県立八重山農林高校の前身にあたる学校です。1944年8月、石垣島に駐留した日本軍は、八重山農学校の校舎を接収、司令部を置きました。

石垣での空襲は44年10月以降頻発します。米英軍は、島の中に日本軍の飛行場を標的とする中で、攻撃は軍の施設が置かれた周辺の住宅地にも及びます。

大田静男さん「これを書いたのがこの人だね」

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

県立八重山農林高校の図書室で、当時の資料を調べるのは、八重山郷土史家の大田静男さん。節子さんと同時期に在学していたというきょうだいも含め、痕跡をたどっていました。

記者「お兄さんが7期で、節子さんが8期?」

大田さん「そこらあたりがよくわからないわけよ」

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

八重山農林高教頭「8期生に備瀬という方はいらっしゃらないですね」

大田さん「備瀬さんは卒業してないね。じゃあもうわからんな(兄は)名前もわからんね」

学校の公式記録に残るのは、卒業生の名簿。在学中に亡くなった備瀬さんの名前はなく、きょうだいの存在も確認できませんでした。

沖縄戦に限らず、八重山の歴史を長年研究してきた大田さん。備瀬節子さんが亡くなった経緯や理由は、長年追い続けてきたテーマの一つです。

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

大田さん「米軍が沖縄に上陸するから、宮古、八重山の飛行場は、絶対(日本軍の)飛行機を飛ばせないようにしなさいというのが、米英軍の計画ですから。飛行場も街も港湾も攻撃している」「その中で八重山農校も攻撃されたと。犠牲者が備瀬さんだったんじゃないかと」「(学徒動員で)戦場に送られる前に、この授業中に、しかも学校の敷地内で銃撃されて亡くなったっていうのは沖縄県の中でも、そういう例というのはないんです。ないんですよね。僕聞いたことがない」

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

備瀬さんに関する数少ない記録の一つが、1984年に出版された本です。その中に、当時の高校生が聞き書きした、沖縄戦の証言が収められています。

「備瀬せつ子さんが、米軍の機銃掃射で左の太ももに銃を受け、出血多量で泣きながら亡くなりました。私たちは、その時、何も出来ず、ただ、皆んなで集まって泣くばかりで、こんな風に死んでいくんだなぁ、と思って身震いしました」

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証言したのは、八重山農学校で備瀬さんの同級生だった平田春さん。今も石垣市内に住む平田さんは、私たちに当時の記憶を手繰り寄せながら語ってくれました。

平田春さん「飛行機がブーンときて、備瀬さん、もうひとり、ウエチさんだったかな、やられて死んだんだよ」「備瀬節子さんと言って、家が線香作ってた。あの時のこと考えたらもう、大変だったよ。兵隊も一緒でしょう。防空壕に入るっていう。もう大変だった」「もうお母さんも泣き崩れてよ、もうかわいそうだったよ。あれなんて考えたら本当にもう、生き地獄よ」

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

小学校から備瀬さんと同級生だったという平田さん、人柄をこう振り返っていました。

平田春さん「朗らかな方だった、備瀬せつさんは」

記者「かわいらしい方だったと聞いています」

平田春さん「もう頭もいいしハキハキして、もう冗談も上手だし」「頭も良かったよ、みんなに教えてよくわからんのは、あんなしてあんなしてといって、いいお友達だったんだけど、あんなに早く死んで。もういないさ。同級生もいないのに」

80年以上がたって、備瀬節子さんの存在を知る人はほとんどいなくなりました。沖縄戦当時、備瀬さんの家は沖縄本島から石垣島に移って線香店を営んでいましたが、一家の戦後の消息は、詳しいことはわかりません。

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

平和の礎で名が刻まれているのも、石垣市ではなく那覇市の刻銘版。刻銘に至る経緯も、わからぬままです。

大田静男さん「これから先、彼女、彼女はもう、記憶、もう同級生の記憶の中にも、もうなくなってしまったし、それから自分の行った学校の中にも、記録として残らない」「こんなことでいいのだろうか」「できれば僕は学校が、これは何らかの形でなんというのかな、修了証書っていうのかな、それでもいいし、在学証明書っていうみたいのもでもいいから、出してもらえれば故人も浮かばれるんじゃないかな、という気がするんですけどね」「そうでもしないと何も残らないというのでは、故人は浮かばれないんじゃないかなと」

平和の礎に刻まれた名前、24万人。数字を見るだけではイメージできないところもありますが、沖縄戦で亡くなった人たちにとっては、紛れもなく、この世にいた証の一つなんだなと、あらためてかんじますね。

慰霊の日2026(3) 石垣島・空襲で亡くなった女子生徒/81年後に残る生きた痕跡

大田静男さんは長年調べてきたといいますが、備瀬さんの遺族にはたどりつけていないといいます。備瀬節子さんの情報をお持ちの方は、QABの報道制作部まで寄せてください。

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