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今を生きる私たちが沖縄の未来を見ていくシリーズ「IMAGINEおきなわ」です。

先日、那覇市で戦争体験者から話を聞き実際に体験者が辿った道のりを歩くことで、平和について考える取り組みが行われました。沖縄戦から今年で79年。「生きて、こんな戦(いくさ)があったことを語ってくれ」と上官から託された元学徒の女性が、参加者で前に語ったこととは?

「このお寺をリニューアルするときに、永岡隊の壕があった場所を残すために、あそこに石がありますよね、あの石は壕のあった場所の石です」

沖縄戦の語り部ガイドが、案内するのは那覇市首里にある「安国寺(あんこくじ)」。この寺には、当時、地元の人で結成された部隊・永岡隊が展開し、首里城にあった旧日本軍の司令部を守ってました。

翁長安子さん「私は志願して、お姉さんたちは皆、18歳19歳、二十歳くらいのお姉さんでした。そのなかに15歳の女の子が一緒に永岡隊に入隊しました。」

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク

その部隊に志願し、従事した元学徒が自身の体験を語ります。思いは、若い人たちに自分と同じ経験をさせないためです。

翁長安子さん「生きている間は、しゃべります。私は絶対に二度と戦場にしたくないという気持ちでいっぱいだからさ。」

那覇市・栄町市場の一角にあるひめゆりピースホール。この日、「安里から首里への道」と題された平和学習が開かれました。内容は、沖縄戦体験者の話を聞き、実際に周辺の戦跡を歩くことで追体験するもの。参加者の多くは、戦争を体験していない世代です。

翁長安子さん「実は特別警備招集隊の永岡隊という部隊は郷土部隊だから看護、炊事の手伝いをする女性たちのアレがないので、世話をしてくれと頼まれたそうです」

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク

講演で、自身が部隊に入るきっかけを語り出したのは、翁長安子(おなが・やすこ)さんです。沖縄戦当時、15歳の翁長さんは県立第一高等女学校に通う2年生で、「お国のために」という思いがあったと話します。

翁長安子さん「学問どころじゃないですよね。戦に勝つ、世界一になるために学問はそっちのけで、軍事作業は一日おき、軍事作業にがんばりました。」

そして、翁長さんは、1945年3月31日、首里城のある旧日本軍の司令部を守る任務にあたっていた特別警備隊「永岡隊」に炊事、看護要員として参加することになりました。「永岡隊」は県立一中の先生でもあり、安国寺の住職でもある永岡敬淳(ながおか・けいじゅん)隊長のもと沖縄県人で構成された部隊でした。

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク

翁長安子さん「皆が立派なお坊さんだということを知っているもんだから、じゃあそこの部隊だったらいいじゃないかということで」

しかし、翌4月1日、アメリカ軍は読谷村に上陸し、首里の司令部攻略のため圧倒的な軍事力を持って日本軍の防衛ラインを突破していきます。5月になると、アメリカ軍と日本軍の首里での攻防が激しくなり、翁長さんがいた壕にも、多くの負傷者が運ばれてきたと話します。

翁長安子さん「怪我人が増えても治療する薬がないんですよ。病院じゃないから。そうかと言って南風原の陸軍病院や、ナゲーラの(陸軍)病院まで運ぶ担架もないし何もない。道具がないわけですよね。ですから入口に寝かしたままあれよあれよという間に亡くなってる」

5月22日、日本軍は首里の司令部撤退を決め、27日に南部への移動を始めますが、翁長さんの部隊に非情な命令が伝えられます。

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク

翁長安子さん「永岡隊は郷土部隊だから最後まで首里を守れと」

その後、アメリカ軍から激しい攻撃にさらされることにあります。

翁長安子さん「戦車砲が『ボーン』と打ち込まれたわけですよね。なんかあのそうゆうもので入口に、15~6個ぐらい積み込まれて入口をふさいでいました。そこの最初の一発目の戦車砲が撃ち込まれて、それから次、間があるかと思ったら、次打ち込んできたのが戦車砲でした。火の出る戦車砲でした。」

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク

この攻撃で、生存者は隊長、当番兵、衛生兵、翁長さん女性たちを含めて数人でした。その後、翁長さんは隊長と避難しようとしましたが、足を滑らして転落してしまい、戦火を、一人さまようことになります。

翁長安子さん「私は20m崖下に落ちてしまったわけですよね。それからその音をきいて上に待機してしていたら、アメリカ兵が機銃をバラバラバラっとやったんですね。その流れ弾が私の背中に当たってリュックを吹き飛ばし、リュックを通って背中をえぐって弾は抜けているわけですよね。」

翁長さんは、南部の壕で永岡隊と合流を果たしますが、外では、アメリカ軍が投降するよう呼びかけていました。そして、隊長・永岡敬淳(ながおか・けいじゅん)は翁長さんにある思いを託したと言います。

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク

翁長安子さん「捕虜になるときに、『安子、生きてくれ、君たちは若い、死ぬな』『生きてこんな戦があったことを語ってくれ』と」

翁長さんの戦争体験を聞いた参加者は、実際にその道のりを辿ってみようと安国寺を訪れ、壕があった跡地などを見学しました。境内には、永岡隊の慰霊塔もあります。

「こちらが永岡隊の慰霊碑。特別警備隊第223中隊、特別警備っていうのがいわゆる郷土部隊、この特設警備部隊というのは日本全国にあります。沖縄だけじゃなくて。敵が自分の住んでいるまちに攻め込んできたらここで戦う。」

参加者は、翁長さんの体験した沖縄戦の実相に触れながらその残酷さと平和への思いを胸に刻んでいました。

IMAGINEおきなわ#65 戦争体験者の道のりを辿るフィールドワーク

参加者アメリカ出身 40代「沖縄戦を生き延びた人に会えて本当に驚きの体験、沖縄戦を9年間勉強してきたが、彼女の足取りを辿れてよかった」

参加者 京都出身 20代学生「翁長さんが経験してきたことを考えながら歩くことによって、沖縄戦というものは何だったのかというものをしっかり感じ取ることができて、戦争のこの悲惨さであったりとか、やっぱり二度と戦争を起こしたくないなという、そういう気持ちにさせられました。」

翁長安子さん「生きている間は、しゃべりますよ。私は絶対に二度と戦場にしたくないという気持ちでいっぱいだからさ。私たちの体験で十分だから。こんな人殺しの戦争なんか」

翁長さんは、永岡隊長に託された思いを、戦争を体験していない世代に繋いでいきます。

永岡隊長に託された思いを語り継ぐ翁長安子さんいつも講和に行く際は、「今日はここで講和をします」「ちゃんと話ができるように見守ってくださいね」と感謝の気持ちで永岡隊長に声をかけているそうです。

多くの命を奪った沖縄戦翁長さんは今も、沖縄を2度と戦争にしたくないという強い気持ちで若い世代に語り続けまます。