太平洋戦争末期、中国の上海陸戦隊へ配属され通信兵として任務に当たってた瀬長俊雄さん。96歳になる瀬長さんが語る、戦場の記憶とは。
伸びやかな歌声に、静かに響き渡る三線の音色。奏でるのは、96歳の瀬長俊雄さんです。琉球古典音楽の師範免許を持つ瀬長さん。40代から始めた三線を、今も毎日3時間ほど稽古しています。

瀬長さんは、沖縄からフィリピンに移住した両親のもとに生まれ生活していました。しかし、10歳のとき生活の苦しさから兄弟3人で沖縄の祖父母のところへ。両親から離れ、その暮らしは苦しいものでした。
瀬長さん「おじーとおばーしかいないから、それからが大変だったんですよ。子どもだけど、家も仕事もしないといけない、学校も行かないといけないし」
15歳で海軍に志願。1944年、山口県の防府海軍通信学校に入学します。

瀬長さん「軍隊に行かないものは、各家庭でも何か変な目で見られる感じでね」
お国のためにと瀬長さんは少年通信兵として厳しい訓練を受け懸命に学ぶ日々でした。その後、1945年2月、瀬長さんは中国の上海陸戦隊に配属されます。そこで東京などから送られてくる通信情報を送受信する任務にあたります。3月のある日、通信の感度が悪く、信号が届かないこともありました。

瀬長さん「今まできれいに聞こえていたのにねたたたってこうして聞こえなくなるんですよね。字を書いていなかったら、暗号部は「貴様、居眠りしていたんだろう」といわれるんですよね
そのころ日本各地ではアメリカ軍による空襲が激しく東京大空襲の頃と重なります。そして、6月には沖縄の戦況が伝わりました。
瀬長さん「沖根司(沖縄根拠司令部)ってあったから、これ沖縄のことかなっていたけれども、沖縄に艦砲射撃上陸っていう情報ははいっていたけど」

「首里撤退、沖縄玉砕」という情報を聞き、瀬長さんの胸に広がった思いは「絶望」でした。
瀬長さん「沖縄は6月には全滅だっていうのが入って、みんな死んだかフィリピンも全部死んだか、自分一人か」「通信隊としては自分の任務しかないから」「8月に入ったら戦闘配置につけっということでね」
瀬長さん「アメリカはM4戦車を持ってひき殺すんだよ、日本軍はたこつぼをほってそこで爆雷をもって突撃して自分も死ぬんだよって、この教えをやりよったんですよね」
1945年8月15日玉音放送が流れたこの日。放送ははっきりと聞こえなかったものの「無条件降伏」という言葉だけが心に残りました。

瀬長さん「負けるぐらいだったら突撃してどうせなくなるんだろう、国も無くなるんだろう、突撃して死んだほうがいいんだよという考えでね」
終戦後、上海から引き上げた瀬長さんは多くの人が疎開していた大分へ向かいました。そこで生き別れてもう会うことはないと思ってた母と妹たちに奇跡の再会を果たします。
瀬長さん「お母さんもやせ細って、子どもたちもボロボロの服をつけて」
終戦直後は、苦しい気持ちで生きたきたと話す瀬長さん。生きて帰ってきた事への負い目を感じたと言います。

瀬長さん「わんや むる しなちねーらん どんなふうに生きたらいいかねーって」「やーやへいたいんかいいじ 生きて帰ってきて私の一人息子 盛徳は中学校に出してどこでいなくなったか まだ帰ってこないよ」「生きて帰ってほんと心苦しいなって気持ちなんですよね」
90歳のときに完成した自分史、そこには、戦争体験や家族のこと、そして平和への願いが込められています。

「戦争はあってはいけないものだ」
瀬長さんが繋いだ命。いまでは、24人の孫と25人のひ孫に囲まれています。
孫「おじいちゃんが亡くならずに生きて帰ってきて、おばあちゃんと出会って、お父さんたちが生まれて、いまこうやって繋がってるので、目標となる存在」「平和が一番というのは伝えてもらっているので、子どもたちにもそういうふうに伝えていきたい」

孫やひ孫と共にサンシンを奏でる瀬長さん、26日には豊見城市で地域の人や家族と共にカジマヤーパレードを行います。
瀬長さんは戦争の記憶を語るたびに何度も涙を流していたそうです。その姿をみて孫たちは「つらい思いを思い出させてしまうのでは」となかなか直接聞くことが出来なかったと言います。
しかし、自分史に綴られた言葉を通して「平和を願うおじいちゃんの想いを次の世代につないでいこう」と感じたそうです。

カジマヤーパレードの日には、地域の人へのお披露目を終えたあとに公民館で親族50人程集まり、盛大に行うそうです。その模様はまた、来週の特集でお伝えします。