沖縄の復帰からきょうで45年です。「復帰の父」と言われる当時の屋良主席・屋良知事の原点と、復帰にかけた思いを、退任時の肉声を通して振り返ります。

屋良知事の原点と復帰への思い

屋良朝苗知事(当時)「基地のある間は、沖縄の復帰は完了したとは言えない。『基地のない平和な島の回復』といった合言葉に照らしてみたときに、沖縄の復帰問題は、完全に解決したとは、言えないわけであります」

「基地のない沖縄を」と訴えるのは、復帰の際、初代県知事となった屋良朝苗さん。

元琉球新報記者三木健さん「公人として最後の挨拶だということで、録っておこうという気持ちになったわけね。本当の屋良さんの気持ちというのがあれに出てたと思うだよね」

屋良知事の原点と復帰への思い

当時、琉球新報の記者だった三木健(みき・たけし)さん。退任記者会見の際の肉声を、テープに残していました。

三木さん「佐藤総理は、『沖縄の復帰が実現しない限り、戦後は終わらない』と言ったけど、これに対して屋良さんは、『基地がなくならない限り、沖縄の復帰は実現しない』と」

復帰当時行政主席だった屋良さんは、沖縄が望む復帰の形を、「建議書」にしたためて上京しますが、時をほぼ同じくして衆議院で沖縄返還協定が「強行採決」されます。沖縄の思いが届く前に、国によって、復帰のレールが決められた瞬間でした。

当時の心境を屋良さんは、日記に記し、後輩に伝えていました。

屋良知事の原点と復帰への思い

元県教職員組合委員長・石川元平さん「県民の沖縄への思いは、弊履(へいり)のように扱われた。弊履のように扱われた。私最初理解できなかったけど、辞典を引いてみると、破れた草履です。(復帰運動の)先頭に立って、行政の責任者として(建議書を)まとめた、これをすべて踏みにじるわけですから、あの悔しさ、悔恨、思い、これはあとからもずっと聞いてきたんですよ、その思いは」

当時、陰で屋良さんを支えてきた石川さん。教育者だった屋良さんの原点には、「二度と教え子を戦場に送らない」との思いがあったといいます。

石川さん「ここが、教育会館の3階のホールだけども、我々は慰霊ホールということで。オープン以来、屋良会長からずっとそういうことを教わってきました」

主席となる前の屋良さんが建てた教育会館。ホールのステージ裏には、沖縄戦で犠牲になったおよそ7600人の学徒や、引率教員、一人一人の名前が刻まれています。

石川さん「二度と国家権力の手段として利用されて、沖縄が犠牲にされるようことがあってはならんという」

自らが実現できなかった沖縄が望む復帰を、屋良さんは後輩に託したといいます。

屋良知事の原点と復帰への思い

石川さん「屋良先生が願った、核も基地もない沖縄を、これを取り返すのが、君たちの重要な責務だと仰った」

屋良朝苗知事(当時)「私は、沖縄の運命打開にはむしろ鈍角的体制がいいだろうと。だからものの考え方も、仕事の仕方も、おおらかな気持ちで相手の立場も考えながら、何とかして乗り越えていかねばならない」

三木さん「行政としては限界があるわけですね。いろんな要望するけれども、出来ない。ではそれを解決するにはどうするかと言って、やっぱり大衆の力を借りないといけない。大衆の力を行政やいろんなところに反映しながら、問題を解決していこうと」

こうした思いは、出身地読谷村の記念碑にも刻まれています。

屋良知事の原点と復帰への思い

屋良さん「私は苦節を全うし貫いて復帰を勝ち取った。今残されている困難はあろうと思うが、必ず勝ち取る、必ず乗り越え、打開できるんだ、運命を変えられるんだという希望をもって努力して頂きたい」

復帰から45年。当時、5割ほどだった全国のアメリカ軍専用施設に沖縄が占める割合は、およそ7割。屋良さんが目指した「本土並み」とは程遠い、過重な基地負担は続いています。