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沖縄戦の時、波照間島の人たちがマラリアの有病地帯である西表島に強制疎開させられ、島の30%もの人々が亡くなった「戦争マラリア」。強制疎開を迫った人物について証言を追いました。

日本最南端の島、波照間島。67年前の沖縄戦で地上戦はありませんでした。しかし、島の人口の3割がマラリアで亡くなるという、悲惨な出来事がありました。浦仲さんは当時を知る人物です。

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浦仲孝子さん「疎開しんぎ、はぎ生活したと(疎開してあっちで生活したんだよ)、2か月か、3か月くらい。(Q:はぎ(あっち)と言ったらどこですか?)西表でさ、疎開のところでさ」

対岸に浮かぶ西表島。沖縄本島で地上戦が始まった頃、波照間の全住民は西表へ疎開をはじめました。そこは恐ろしいマラリアの有病地帯。人々は恐怖を抱きながら、海を渡りました。

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孝子さん一家11人全員がマラリアにおかされ、孝子さんと妹のたった2人だけが生き残りました。西表島への疎開を指揮したのは誰だったのか。二人はこう話します。「ある日、突然島にやってきて、疎開を指揮し、戦後こつ然と姿を消したヤマトンチューがいた」と。

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その人物は山下虎雄(当時25歳)。1945年初め、青年学校教官として、突然、波照間にやってきたと言います。竹やり訓練などを教えていて徐々に人々も、親しみと尊敬を抱きはじめたそうです。

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しかし、当時国民学校の用務員をしていた西里スミさんは、異様な光景を目撃していました。山下先生が、強い口調で校長に疎開を迫ったのです。

西里スミさん「『アメリカが来て、波照間に上陸した場合には大変だから、疎開するように』と話されて、校長先生は『そんなこと出来ない』と言って相当もみ合いなさったわけさ」

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西里さんは山下先生に関するあるものを持っていました。山下先生が島の若い男女を集めてつくった「挺身隊」が身に着けていたものです。

30年前、沖縄国際大学のゼミの学生たちが波照間で調査した本です。挺身隊の子どもたちが、まるで軍隊のような訓練をしていたという証言が残っています。

さらに彼の不可解な行動は続きました。疎開前、島のおよそ2000頭の家畜すべてのと殺を住民に命じたというのです。孝子さんたちは一部の肉がどこかに送られていったのを覚えています。

金嶺カネさん「山下なんかがみんな潰して、肉はあれしてから食べた」

利さん「つぶしたのは分かるけど、潰して燻製にしたのはわかるけど、どこに送ったかはわからんさ」

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沖縄戦に詳しい、名護市市史編纂室の川満彰さんです。

川満彰さん「これですよ『沖縄第32軍も独自の離島工作員を担任地域の諸島に配備した』。これが酒井清助(山下寅雄)」

酒井清輔、別名・山下寅雄。スパイ活動やゲリラ戦などを専門とする陸軍中野学校出身者でした。川満さんは疎開は、住民の安全のためではなく、別の目的があったのではと指摘します。

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川満さん「石垣島にいた日本軍の食料を確保するために。住民が邪魔だから西表島に強制疎開させたんじゃないのかという論がある。あの論の推測は高いと思う」

山下軍曹自身もこんな証言を残しています。

『殺した牛や馬などを焼いて、軍の糧秣として石垣島へ送り出した』

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さらに、驚くべき事実も明らかになりました。当時、沖縄には42人もの陸軍中野学校出身者が送り込まれていたというのです。山下軍曹のように離島に潜伏した者は全部で11人。沖縄全域にわたっていました。その目的とは…。

川満さん「第32軍が壊滅したあとも、彼らが残って持久戦をやると。遊撃戦。いわゆるゲリラですね。西表島に米軍が上陸したら、(波照間の)挺身隊も遊撃させる。そういう計画があったのかな、と僕は考えます」

国家の勝利のためには島民の生活を奪うことも、子どもたちを戦わせることもいとわない。そんな特殊工作員のために波照間の人々は命を落としました。

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孝子さん「埋葬したんだよ、この辺に」

多すぎる遺体をこの砂地に埋葬しました。

孝子さん「人のこんだけくらい(腰くらい)、うずまれるくらいやったんだよ」

孝子さんの父親も最後は友人の手で、この地に埋葬されました。

孝子さん「はるぶったて(あっちに住んでいたよ)、何か月とおったさ。近いようで遠いよ。西表の島、今日ははっきり見らるん。上等」

もう二度と国に翻弄されることがないように、孝子さんは波照間の体験を子や孫に伝え残していきたいと話しています。

沖縄全域に配備された陸軍中野学校出身者が、各地で青少年を集めてゲリラ戦を行う計画をしていたことなどは、戦後67年がたった今、ようやく明らかになってきています。

当時、被害が少なかったと思われがちな離島でも国の作戦は存在し、一般住民が巻き込まれていたことを私達は多くの犠牲をはらった沖縄戦から学ばなければいけません。