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薬で完全に直る病気だったにも関わらず、ハンセン病回復者に対する隔離政策を取り続けた「らい予防法」が廃止されてから、この4月で丸15年を迎えます。この隔離政策を巡って継続と廃止の立場で対立した二人の医師がいました。

岡山のハンセン病療養所・長島愛生園。戦前に全国初の国の療養所として開設されました。その開設に力を入れたのが、初代園長・光田健輔医師です。

当時不治の病として恐れられていたハンセン病患者を療養所に収容したのが光田園長でした。生きる術を失っていた患者にとって光田園長は命の恩人でした。

しかし特効薬プロミンの出現を機に、光田園長の評価は一変します。

プロミンはハンセン病の特効薬として1943年にアメリカで開発され、日本でも戦後間もなく各療養所で処方されるようになりました。しかしその効果を信用しなかった光田園長は「効果のほどを判断するには10年の経過観察が必要」として、「観察結果が出るまで隔離政策は続けるべきだ」と主張します。

愛生園入所者・宇佐美治さん「光田園長はレプラ(ハンセン病)患者、それからレプラの家族は、断種して子どもを作らなければ日本の『らい』はなくなると。プロミンはいつか耐性が出来る。それでは『らい』はなくならんと。こういう信念をもっておられた」

その光田園長の主張に異論を唱えたのが若き犀川一夫医師でした。犀川医師は光田園長を慕って長島愛生園の外科医に就任。

園長の代理として出席したハンセン病治療の国際会議などを通して、プロミンの治療効果に確信を抱きます。犀川医師は患者の人権を守るためにも隔離政策を廃止して、通院しながら治療する在宅治療に切り変えるよう、光田園長や厚生省に提言しましたが、その願いは聞き入れられませんでした。

宇佐美さんは、犀川医師が外来の診療所を作りたいと提案した時の様子を次のように語っています。

宇佐美治さん「(外に診療所を作って)外来患者の人たちを『もし療養所に入れたら困るという人に(診療所で)薬を出そう』と園長に言ったら、光田園長は『そんな馬鹿なこと出来るか!』と言って…」

1951年、国会で証言にたった光田園長は隔離政策の必要性を訴え「患者は手錠をかけてでも療養所にいれるべき」と主張。この証言を受け、国はらい予防法のもとでの隔離政策を継続。10年の経過観察も行われないまま、らい予防法は半世紀に渡り、ハンセン病回復者に対する偏見と差別を助長し続けました。

一方、失意のどん底にあった犀川医師は隔離政策のもとで治療にあたることに耐えきれず、在宅治療の道を海外に求め、1960年に愛生園を退職。

犀川医師はWHOの職員として台湾などで外来治療を手掛けて、琉球政府から要請を受け、復帰前の1971年、沖縄愛楽園の園長に就任します。

当時、沖縄では療養所がある一方で、アメリカ民政府が在宅治療を認めるようになっていました。犀川医師はその役割りを担っていた沖縄ハンセン病予防協会で、周囲に隠れて通ってくる患者の治療にあたりました。

犀川医師の下で働いた砂川栄子さん「(患者同士が)待合室で会わないように時間をずらしていらっしゃる方、それとここにくることによって自らの市町村、県、保険所に連絡がないかという不安を持っていました」

本土復帰で日本の「らい予防法」が適用された後も、沖縄の在宅治療は特別措置によって継続。世間に知られずに通いの治療で完治し、人生を救われた人は600人以上にものぼりますが、そのほとんどが未だに回復者であることを周りに隠し続けています。

砂川栄子さん「空港などで患者さんが来ても、先生も来たと思うけど、さっと避けるんです。避けて、次にいらっしゃる時に『先生、あの時はすみませんでした』と詫びるんです。沖縄県で特にハンセン病と言えば犀川先生が有名ですから、犀川先生と一緒に立話イコール、ハンセン病患者と」

自らのことを隠さず生きてゆきたい。ハンセン病回復者たちの心の叫びです。