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アメリカ軍の上陸が迫る中、本島中南部から国頭地区への疎開が本格的に始まります。

65年前のきょうの沖縄新報。そこには国頭地方への疎開者に対する食糧計画が確立されたという記事があります。

「特に疎開者には、農民、非農民を問わず、澱粉、澱粉粕、雑穀などの生産をうんと奨励し、疎開とともに携行させる。さらに、出来る限り農具を持たせしめること」

読谷村史によると、読谷で国頭疎開が始まったのは2月。証言記録には次のように記されています。

「役場を出発し、西海岸沿いに歩き、名護の学校で一泊、翌日羽地の学校で一泊し、3日目に国頭村に着きました」

疎開者が空襲を受けることもあり、戦況の悪化にともなって、昼間の移動は徐々に難しくなっていきます。3月に入ると役場も解散。引率者を伴った組織的な疎開は次第に崩壊していきます。