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Qリポートです。うるま市の宮森小学校にアメリカ軍機が墜落し17人が死亡した事故から50年。この節目に、これまで堅く口を閉ざしてきた遺族たちが事故について語り始めていますが、その中に、事故後17年経って後遺症で息子を亡くした女性がいます。短いながらも精一杯生きた青年と、母の思いを取材しました。

先月30日、宮森小学校で行われたアメリカ軍機の墜落事故の追悼式。今年初めて追悼式に参加した女性がいます。新垣ハルさんです。

新垣ハルさん「二度とこんなことは起こさないでくださいと願いました。」

痛々しいやけどの痕が写し出された写真。これはハルさんの息子・晃さんです。晃さんは事故で全身の50パーセントに大やけどを負いました。

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新垣ハルさん「全体に頭も燃えていたんじゃないかね、ジリジリ。夏だから半ズボンつけてるでしょ、こっちから全部焼けてたから。

新垣ハルさん「一緒に死ぬ気持ちだったよ。本当に。そうでした、死ぬ方が良いと思っていましたよ。」

嘉手納基地の調理場で働きながら女手一つで息子を育てていたハルさん。病院のベッドで横たわるわが子の姿に、一緒に死ぬことも考えたといいますが、晃さんは幼いながら度重なる手術に耐え、学校に戻るまでに回復しました。中学、高校時代には陸上選手として活躍、体育教師を目指して琉球大学にも進学しました。

新垣ハルさん「自分は長距離ランナーだから、自分はいつかオリンピックに行くよって言っていました。」

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友だちと青春時代を謳歌する晃さん、日々、逞しく成長する息子は母親の自慢でした。しかし、もうケガを乗り越えたと一安心していた、そんな矢先に体調に異変が現れたのです。

新垣ハルさん「汗が出なくて、内臓にきたそうです。先生が言う話では。」「自分は治らないということはわかっていたかも。母ちゃんしわるやんでー、母ちゃんのこと心配だよといっていたから。」

晃さんは23歳でこの世を去りました。しかし事故から17年後に亡くなったため米軍機事故の犠牲者に含まれていません。ハルさんは、息子は18人目の犠牲者だと訴えます。

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息子さんが亡くなったのはジェット機事故のせいだと思いますか?

新垣ハルさん「私はそう思っています。そうじゃなかったら、あれはしないのに。医者にもそういわれたし。」

事故から50年の節目に宮森小学校に、この事故を伝える平和学習資料室・宮森「630館」が設置されました。そこでハルさんは1枚の写真を見て泣き崩れました。痛みをこらえながらリハビリに励む息子の写真です。一人息子を亡くした深い悲しみから事故については口を閉ざしてきたハルさんが今年初めて当時のことを語ってくれたのにはこんな思いがありました。

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新垣ハルさん「生徒さんたちにもこういうことがあったと示したいんですよ。こういうことがあったということを子どもたちにも。」「戦争があったゆえにジェット機が落ちるさ、だから戦争はなくしたいですねといいたいです。それを願います。」

QABではきょうの深夜0時35分からテレメンタリー2009「忘れたい 忘れてほしくない〜宮森小 米軍機墜落事故から50年〜」を放送します。50年経っても決して、癒えることのない遺族たちの悲しみ、彼らの声を通して事故の実相に迫り、真の平和について考えます。以上Qリポートでした。