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日米両政府は今月末、読谷村にある瀬名波通信施設およそ61ヘクタールを地主に返還します。

アメリカ軍が情報戦の要として活用してきたこの施設の機能は同じ読谷村内にあるトリイステーションに移されますが、この通信施設の歴史を見ますと、アメリカ軍が地元に押し付けてきた『不条理』とそれでも生活の糧を軍用地料に頼らざるを得なかった住民達の生活が見えてきます。

ことし7月に読谷補助飛行場と通称「象のオリ」と呼ばれる楚辺通信所の一部、今月末には村北部の残波岬にも近い瀬名波通信施設と基地の返還が相次ぐ読谷村。

瀬名波通信施設は空軍の「海外放送情報サービス」という部隊が使用し、情報戦の要として、軍の「巨大な耳」の役割を果たしてきました。

岸本記者「瀬名波通信施設のすぐそばにあります渡慶次集落に来ています。この地域は復帰前、アメリカ軍から一方的に電波障害地域に指定され、テレビや冷蔵庫の使用が禁止されました」

玉城安徳渡慶次区長「周辺は電気がつくのに自分たちはランプ生活を強いられてきた。中学3年頃(1967年)に電気がつくようになった。新聞にも陸の孤島ということで大きく記載されたこともあった」

当時、渡慶次区には軍専用の通信線が走り、アメリカ軍は通信傍受の障害になるのを避けるために住民の電化製品の使用を許さなかったのです。渡慶次区出身の安田村長も当時の状況をよく覚えています。

読谷村・安田村長「蛍光灯はだめだとか、いろんな条件がつけられた」「(周辺地域と)生活に格差が出てきた。あの状況は今では考えられない」

当時、土地を強制的に接収しただけではなく、住民の基本的な権利をも侵害したアメリカ軍。しかし今、70代から80代となった地主の多くは軍用地の返還を素直に喜べない状況にあります。

軍用地主「嬉しくない。軍用地があるから食べていけるんだ、年寄りは。野菜作ってたら子どもや孫たちに食べさせるだけ。お金は入ってこない。軍用地があるから食べていけるんだ。あと10年も20年もあってほしい」

軍用地主「サトウキビとか芋とかを作りながら軍用地代、要するに現金も入ってくるし、一石二鳥だからあったほうがいい」

61ヘクタールの土地のほとんどが黙認耕作地である瀬名波通信施設では、基地を隔てるフェンスもなく、地主はこれまでも自由に立ち入って作物を育てていました。しかし今回土地が返還されると、その軍用地代だけがなくなり新しく得るものはないと考える地主が大半なのです。土地返還に対する反対運動も起きたこの地域でどのような跡地利用計画を立てるのか、村長も頭を抱えています。

読谷村・安田村長「軍用地料に替わる収益をどう求めるかと村長に求められても術はない。一日も早く、どういう跡地利用を作り上げていくのかが大きな課題」

380人の地主に支払われてきた年間およそ4億円の軍用地料は、今後3年間は給付金と名を変えて継続されます。

村長はこの給付金を跡地対策費として使いたいと話しますが、地主はこれまで通り生活費として使う考えで、跡地利用に向けた議論は宙に浮いたまま施設は返還の日を迎えることになります。

今まで土地を取り上げられて、もう高齢になった地主に跡地利用の方法を考えてくださいといっても酷だとは思いますがでも、いつまでも軍用地として使ってくださいというのは基地負担の軽減という観点から見ると明らかに間違ってると思うんですよね

「軍用地以上の利益を上げる土地の活用方法は県内にはない」なんていう人も中にはいますが、なんとか地主も村も共に幸せになれる跡地利用の方法を見出していって欲しいと思います。