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戦後80年の節目のことし「たどる記憶つなぐ平和」として特集でお送りしています。今週は慰霊の日まで毎日お送りします。きょうは、沖縄戦当時4歳だった男性が語る、忘れることができない記憶です。

糸満市の米須小学校向かいにある「忠霊之塔」米須地区の一家全滅した家族を祀るために1959年、遺族により建立されました。

久保田宏さん「5.6年前までは7・8人ぐらいいたんですよ」「その人たちも高齢になって、90歳になって、別の方がたは、それで僕1人でやっています」

慰霊の日を前に、塔の周辺を掃除するのは久保田宏さん。この塔には、159人の名前が刻まれています。そこには、久保田さんの母と祖母の名前も、塔の下には「アガリン壕」という自然壕があり、この塔を建立するきっかけになった場所でもあります。

1945年6月10日ごろアメリカ軍が南部に進撃し地上戦が激しくなる中、住民たちはアガリン壕で爆撃におびえ、飢餓と恐怖を抱きながら身を潜めていました。

たどる記憶つなぐ平和#21「生き別れの弟に贈る祈り」

久保田宏さん「この月になると、いつも思いだすんですよね、それで母も祖母もこっちで亡くなったものですから、浄めたらいいかなって、毎年やっているんですけどね」

久保田さんは、祖父母・母・姉・弟合わせて6人でアガリン壕に避難していました。

久保田宏さん「壕の中は、わりと広いんですよ僕らは最後のほうだったから入口の方にいて」「母がそこに駐屯している日本兵の食事の調達の帰りにやられたみたいです」

身ごもっていた久保田さんの母は、食糧調達から戻るときに壕の近くで銃撃を受け死亡。そして、祖母も親族の様子を見に行った際に爆風に巻き込まれ即死しました。

たどる記憶つなぐ平和#21「生き別れの弟に贈る祈り」

母と祖母が亡くなった6月19日。くしくもその日に防衛隊にいた父は傷を負ったため帰省を許され戻ってきました。

「大きな爆弾があって、天井から小石が額に当たってこっちで死ぬよりは海に行こう」新鮮な空気を吸って水を飲んで死のうと父の先導で残った家族で命がけで移動したのです。

案内する久保田さん「これがスーガーです。湧き水です」「親父は、ここで死んでもいいということで、こっちに来たんですけど、ぼくは死にたくなかったですね」

たどる記憶つなぐ平和#21「生き別れの弟に贈る祈り」

湧き水のスーガーから少し離れた場所のインガーという岩のくぼみがあり、そこで身を隠していました。するとアメリカ兵2人に銃を突き付けられ父と姉そして久保田さんが保護されたのです。

久保田さんの父、清さんは糸満市史の手記にアメリカ兵に捕虜になったときのことを赤裸々につづっています。

「米兵に見つかって私は、息子に『もうこういう状態だから死のうね』と言ったら『死なないほうがいいよ、死なない方がいいよ、おとう』と泣いて言われて、手がつけられませんでした」「わたしは、そのとき鍬をもっていて子どもをやるつもりでしたよ。今でももし、子どもをやっていたら自分はどんな風に死んだかなと考えることがあります」

久保田さんたちが壕を出た翌日。壕の中では惨事が起きていました。

久保田宏さん「ガソリン入りのドラム缶を流して火をつけたみたい。アメリカ兵は民間人がいることを知らなかったんでしょうね。兵隊が封鎖していらものだから民間人は外に出ることができなかったんですよ」

たどる記憶つなぐ平和#21「生き別れの弟に贈る祈り」

日本兵が封鎖した壕からは逃げ出すこともできず、皆、窒息死したそうです。米須地区が集めた資料によれば257家族のうち、62家族が一家全滅。24%が犠牲になったという記録が残されています。

久保田宏さん「親父がいたから今僕たちがいるんだよね、もし親父がいなかったら、こっちまできていたから、僕もあそこで窒息死していたと思いますよ」

ただ、久保田さんには胸につかえていることがあります。アメリカ兵に発見された時、歩くことが困難だった祖父と、まだ3歳の弟を岩のくぼみ(スンガー)に残していったのです。

「弟は、まだ生きていると思うんですよ、生き別れしています。弟のお名前は『勲』です」

たどる記憶つなぐ平和#21「生き別れの弟に贈る祈り」

自分たちはアメリカ兵に銃殺されても、当時3歳だった勲さんだけでも助かり救ってほしいという思いで祖父と弟を残していったと話します。それ以来、弟、勲さんの消息は分かっていません。どこかで生きている、その想いだけを80年間過ごしてきました。

久保田宏さん「どこかで聞いてくれたら、ひょっとしたら本人が出てきてくれたらいいなって思って取材を受けているんですよ」「いつもその時期になると思いだしますね、家族のこと」

ここ数年、久保田さんは1人でこの「忠霊之塔」を掃除しています。

「引継ぎみたいなかたちで、次の若い方たちにも場所の説明とかしているんですか?」

久保田宏さん「もう関心がないですね、今の子どもたちは、もう本当に関心がないですね」

「命を繋いだ責任」「今なお消えない会いたい人への想い」終戦から80年、家族を引き裂いた戦争は久保田さんの中で消えることなく続いています。

久保田宏さん「ただ会いたいだけ、会えるものだったら本当に今でも会いたいですね」

たどる記憶つなぐ平和#21「生き別れの弟に贈る祈り」

久保田さん、弟さんに会えると信じて何度か取材にも応じてきたそうなんですが、80年を節目に取材に応じるのもこれで最後にしたいとぽつりとつぶやいていたそうです。弟の久保田勲さん、ご存命でしたらいま83歳です。何か手がかりがありましたらQABまで情報をお寄せください。

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