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シリーズでお伝えしています「たどる記憶・つなぐ平和」です。来年1月に100歳を迎える女性が自身が体験した沖縄戦について証言してくださいました。これまで家族にもあまり語ることのなかった戦争体験です。

9月15日敬老の日 上原さん100歳訪問

フラダンスの衣装で市長を出迎えたのは那覇市に住む上原史子さん(99)です。ことしの敬老の日、那覇市では、市長が長寿にあやかろうと新100歳の自宅を訪問し、記念品を手渡しました。

上原史子さん「この戦争で家族全滅いたしました。わたし1人生き残ったんで、当時は1人生き残るよりはね、みんなと一緒に死んだ方がよかったという後悔もありましたけど、こうして100歳むかえるまでになって、今はすごく楽しいです」

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

沖縄戦で家族を亡くした史子さん、戦前は、家族に囲まれ幸せな生活を送っていました。

那覇市松下町で5人きょうだいの末っ子だった史子さん。幼少期からバレエを習い、小学校卒業後は第二高等女学校に進学しました。

上原史子さん「もともと音楽が好きだったから」「ピアノとヴァイオリンとそれから管弦楽とあったんですよ」「だから忙しかったけど結構楽しかったですよ」

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

第二高等女学校卒業後、那覇の石油会社に就職した史子さん、1944年10月10日、南風原町から電車に乗り、職場にむかっていたところアメリカ軍の攻撃が那覇の街を襲います。

上原史子さん「最初は演習かと思った」「私は汽車に乗っていて、南風原から那覇まで汽車に乗って国場駅近くになってからサイレンが鳴って」「(石油会社の)事務所も、それから輸送所も、もうなかったです爆弾」

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

アメリカ軍の攻撃により軍人・民間人を含む668人が死亡、那覇の街のおよそ9割が焼失しました。

空襲からおよそ5か月後、1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸、沖縄を北と南に分断し侵攻を開始。アメリカ軍上陸の知らせを聞いた史子さんは、家族5人で糸満市に避難することになりました。

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

上原史子さん「とにかく民家はもうみんな南部に後退したほうがいいよっていう話が軍からあったもんだから」「お米だけもってみんな逃げたんです」

糸満市米須や山城に避難した史子さん。家族と壕に身を寄せていたところ、日本軍に弾運びをするよう命令されたといいます。

上原史子さん「伏せろという声で弾を置いて伏せたの」「私が伏せたのがぶよぶよだったんだよ」「見たら死体に私がのっかっていた」「それでもね、見てもなんとも感じないんですよ」「そういう非常事態になると人間は馬鹿になります」「可哀そうというのもなくなる」「もう全ての神経がダメになります」

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

敗走する日本軍にアメリカ軍の攻撃が激しさを増すなか、6月18日、一家は避難していた壕から少し離れた場所にある小屋で食事をすませ、史子さんは1人、小屋から離れたところで休憩をしていたところに「一発の砲弾」が飛んできます。

上原史子さん「そのときに弾が、至近弾、私を吹っ飛ばされたんですよ」「3メートルぐらい吹っ飛ばされたかな」「私はそれよりも家族がどうなっているか心配だから行ってみたらもうお家がペシャンコでしょ」

この爆風により、史子さん自身も大けがをしますが、家族を助けたい一心で、陸軍病院壕へ走りました。

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

上原史子さん「もう家族全部やられましたって言ったのよ、後で兵士を2,3名やるから心配しないでお前そこにちょっと休んでおけって、おっしゃっていたもんだから」「その陸軍病院の壕にはしばらくいたのよ」

治療をうけた史子さん、家族は無事なのか不安が募り、再び小屋のあった場所へ向かいました。

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

上原史子さん「真っ黒なっていた。もう焼けたんでしょうね、真っ黒いなってね、だけど遺体は何もなかったですよ」

一発の砲弾で家族4人を失った史子さん「悲しい話は聞かせたくない」とこれまで自身の体験をあまり語ってきませんでした。

上原史子さん「いい話はしてもいいけど、こんな悲しい話はね、だけど、もう私も100歳になって死んだら誰もわかんない」「だけど、こういう話をしていたほうがいいかなと思ってた」

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」

現在、史子さんは30年以上続けている「フラダンス」や「ピアノ」の練習に励むなど趣味の時間を楽しんでいます。沖縄戦を1人生き抜き、長い月日がたっても、沖縄戦の記憶を忘れることはないと言います

上原史子さん「やっぱりちょっと辛いですね」「その現場を見てなかったら、そんなんでもなかったはずだからね」「どうもあの現場を思い出すから、どうしようもないのよ」

史子さんは、戦後、家族を亡くした場所を特定しようと何度か山城地区に訪れたそうでしが、なかなか探すことができなかったそうです。しかし、2018年、地域住民の協力を得て場所の特定に至たり、機会がある度に、その場所へ訪れるそうですが、あの日の出来事を思い出し、朝まで眠れない日もあるといいます。

QABでは12月30日に「QAB開局30周年特別番組」「たどる記憶・つなぐ平和」を放送します。史子さんが語って下さった「沖縄戦の記憶」この悲劇を2度と繰り返さないために、体験者の方々が繋いできた思いを番組でもお伝えします。

たどる記憶・つなぐ平和#48「沖縄戦を生き抜いた100歳」