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きょう一日、深い祈りに包まれました。うるま市の宮森小学校にアメリカ軍の戦闘機が墜落した事故からきょうで66年。小学校では追悼集会や慰霊祭が行われました。

1959年6月30日、エンジントラブルを起こしたアメリカ軍の戦闘機がうるま市の宮森小学校に墜落、児童含む18人の尊い命が失われました。

事故当時、亡くなった子供たちが運ばれる遺体安置所を担当していた豊浜光輝さんの証言にはこう記されています。

宮森小学校 追悼集会 慰霊祭

豊浜光輝さん「親達は、わが子を捜すのにまず子供の教室をたずねそれから校庭を血眼になり名前を連呼しながら駆け足で捜しまわる。」「学校にもいない、家にもいない、最後に捜すところは遺体安置所だった。そこで我が子と対面したときの叫びと涙は私はどう証言したらいいかわかりません」

あの悲惨な事故から、きょうで66年悲劇を忘れないようにと行われた追悼集会には宮森小学校の児童と城前小学校の6年生が参加しました。

当時、小学5年生で事故を目の当たりにした久高政治(くだか・まさはる)さんは「66年がたった今でも苦しみ・悲しみを感じている人がいる。同じことが繰り返されないよう事故が起こるとどのようなことになるのかを知ってほしい」と呼びかけます。

平和の誓い「人間はえらくなんかないから、人間は決して強くなんかないから、ひとりひとりの手で平和のバトンを未来に繋いでいこう」

宮森小学校 追悼集会 慰霊祭

悲劇を繰り返さないと誓った子どもたちは、この日のために1か月あまり練習した、事故を題材にした歌を合唱して平和への思いを新たにしました。

合唱「宮森の子は永久に平和の使者になる」

小学生「こんな悲惨な事故を二度と起こさないように、後輩たちにも引き継いでほしいと この集会をしました」

小学生「60年以上たっているのにまだ沖縄にアメリカ軍の基地があるので、そこを変えてほしいと思う」

小学生「この悲惨な事故が起きないようにおばあちゃんから千羽鶴を預かって遺族に見せながら(追悼集会を)がんばりました」「こんな悲惨な事故が起きているのにまだ戦闘機が宮森小学校の上を通っているので、そこをなるべくさけて飛んでほしいなと思いました」

宮森小学校 追悼集会 慰霊祭

この後、慰霊祭も行われ、訪れた遺族や関係者およそ150人が焼香を行い犠牲になった人たちを悼みました。

母を事故で亡くす 伊波秀子さん(88)「飛行機が通るたびにいつもどきどきしています。また落ちてこないかなと」「二度とこのような事故が起こらないようにいつも願っています」

教え子を事故で亡くす 伊波則雄さん(87)「顔がすぐに浮かんでくる。どうして君たちは、本当にこれくらいしかない、気持ちが詰まってしまって」「(いまも)飛行機は毎日飛んでます」「沖縄をどう思っているのか、沖縄県民は虫けらのように馬鹿にしているのか、腹が立っている」

式の最中も頭上を何度も米軍機が飛行。

宮森小学校 追悼集会 慰霊祭

石川・宮森630会・久高政治会長「いま平常のなかでジェット機がどんどん飛んでいる、これがいつどこで落ちるか分からないのが沖縄の現状だと訴えながらやってきている、きょうもまさに私たちが事故のことを真剣に思い起こしながらやっている最中で、それをさえぎるようなジェット機については憤りを感じますね」

宮森小学校では、6年生が1年生に授業をするなど「墜落事故」が忘れられないよう、継承への取り組みが進められているということです。

事故から66年たった現在でも米軍機による事故は相次いでいます。また同じ悲劇を繰り返さないためにも、私たちはこの事故を忘れてはいけません。