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沖縄の戦後復興を支えた金融業界のなかで、沖縄に根付く助け合い文化、模合(もあい)から発展した金融機関があります。

上地英由 沖縄海邦銀行頭取「普通銀行ではない庶民金融って形の努力の結果が、いまの70周年という形でありますし、大先輩、OB・OGの方々に関しては、ここから感謝を申し上げたいと思っていますね。」

上地英由 沖縄海邦銀行頭取

今年、設立70年を迎えた沖縄海邦銀行。実は、沖縄に根付いているある文化が基になっていました。地上戦で焦土となって終戦を迎えた沖縄。戦後、アメリカ軍統治下で経済再建が進められるなか、民間に対しては資金が回らない状態が続き、復興の足かせとなっていました。そこで自分たちで資金需要に応えるために立ち上げられたもの。それは・・・・

親族や仲間などが集まり、親睦を深める場となっている模合。

東与一さん「(模合の)起源は1733年の琉球王朝時代の祭温、三司官の祭温中心にして、発表された、模合の方というのがあるんですね。それが初めてなんですね。」

沖縄国際大学・総合研究機構で模合文化を研究されている東与一(ひがし・よいち)さん。模合では、仲間同士で物々交換やお金を集めてお互いの生活を助けるシステムになっていると話します。   

東与一さん「要するに絆になったり、信用に変わっていって、模合という形」

そのなかで、集まったお金を貸し付けをするための組織、「無尽(むじん)会社」の設立に動いたことが大きかったと話します。

東与一さん「個人でするよりは会社組織にして組織を固めて、もっと所帯を膨らまそうやという考えが、利子を取るようにつけて、貸出利子もいただくと、この仕組みが沖縄県民のニーズによく合っているのではないかとそう思うんですね。」

「無尽会社設立・海邦銀行の生い立ち」

無尽会社設立・海邦銀行の生い立ち

1949年からの5年間に那覇や宮古、八重山に7つの会社ができました。その後、これらの無尽会社は、相互銀行へ名称を変更、県民の経済を支えることになります。 その中で、沖縄相互銀行と第一相互銀行はのちに合併し、「沖縄海邦銀行」になりました。

沖縄海邦銀行の上地英由頭取は、会社設立当時の状況について上司から聞いた一人です。

上地英由 沖縄海邦銀行頭取「庶民の金融機関として、資金需要要請に対応するためには、民間の金融が必要だろうという、一つの経済界からの大きな要望がありまして、みんなでお金を集めて、それをまた金融という仲介の中で、沖縄経済発展のために、一肌脱ごうじゃないかという形の方々が集まったのは、無尽会社のスタートだったとお聞きしていますけれどもね。」

こちらは、国際通りにある沖縄海邦銀行松尾支店。もともとは、合併前の第一相互銀行の本店して建てられたものです。1956年に完成した建物は、沖縄の戦後の経済発展を見続けてきました。

第一相互銀行の本店

また、この建物の前の道路。国道58号の松山交差点まで続く、およそ500mの通りは、「一銀通り」と命名されいまでも親しまれています。

県民に根付く模合から発展し、時代によって形を変えてきた沖縄海邦銀行。銀行の歴史を紡ぎながら、これからも県民に寄り添った形で県の経済を支えたいと上地頭取は話しました。

上地英由 沖縄海邦銀行頭取「個人模合というのも、本土と違って長い歴史を沖縄はずっとここ最近まであったわけですから、それが、お互いが助け合うという風土というのがですね、脈々と沖縄の中でやっぱり、ずっと受け継がれていると思っています。これからも沖縄の金融仲介機能を担いながらですね、沖縄の経済発展に貢献してきたいのが、一番の使命だと思っております。」