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中村キャスター「ここからスタジオに仲宗根さんです。23日は慰霊の日。気象予報士の仲宗根さんが忘れてはいけない歴史をリポートでお伝えします」

気象予報士仲宗根さん「はい。気象情報というは今では誰でも気軽に目にすることができますが、そうではない時代がありました」

那覇市首里にある一中学徒隊資料展示室。ここには戦場に駆り出された少年たちの遺影が展示されています。その一人、島袋完敏さん。久米島から首里の県立第一中学校に進学していましたが、陸軍の気象隊として動員され、亡くなりました。妹の前村芳子さんにお話を伺いました。

前村芳子さん「(Q.お兄さんとはいくつ離れていますか?)7歳ですね。私が10年、向こうが3年ですから、7歳離れています。(Q.お兄さんが戦争に行かれて、どういうお話を聞かれていますか?)私が聞いているのは、頭が良くて、県立一中に一発で合格してとても期待しているんだなと私も受けたし、両親も完敏には期待していたと思うんです」

もう一つの沖縄戦 観測続けた気象職員たち

糸満市伊原にある「琉風の碑」。戦死した気象台職員の名前が刻まれています。戦時下では、天気は生活情報としてではなく軍事行動を左右する重要な情報とされ最後まで観測の任務を果たそうと、最前線で活動した72人が犠牲になりました。

糸数俊一さん「陸軍の気象隊に組み込まれた人たちは、首里なんですが、固いので壕が掘れないということで、沖縄独自の亀甲墓、お墓の入り口を開けまして、中に入って観測を続けた。(Q.どんなことがあっても、命を懸けても、観測を続けなきゃいけない。使命のようなものだったんですか?)気象台職員としての使命感と、当時の社会情勢、いわゆる軍命というんですか」

一方で、戦争の足跡が近づいてきた1941年から、気象情報は軍事機密とされ、国民から天気予報は隠され続けました。

糸数俊一さん「太平洋戦争が始まった1941年から、気象管制というのがひかれまして、気象データというのは、一切、新聞、ラジオに発表してはいけないというのがありまして」

もう一つの沖縄戦 観測続けた気象職員たち

当時の気象観測がわかるデータが沖縄気象台に残っていました。こちらは当時の天気図。すべて公表されなかったものです。戦況が厳しくなる中で、途絶えながらも、沖縄気象台職員は、観測を続けていたことがわかります。

気象予報士仲宗根さん「5月25日は、天気と風向きなどが観測されていますね。でも26日は何も示されていません」

ここに当時の、貴重な音声が残っています。気象職員の生き残り、喜瀬宏さんが生前に証言したものです。

喜瀬宏さん証言「ここにいたら我々は間違いなく全滅する、頼む、誰でもいい。一人でもいいから生き残ってくれ。特攻機が飛んでくるのは、気象通報しかないんだということで、特攻機が飛んできて、沖縄を救えるように、日本が救えるようにという格好で、最期まで気象観測する」

実は喜瀬さんは、島袋完敏さんと最期まで行動を共にしていました。まだ15歳だった完敏さん。見習いとして、気象台職員たちと行動を共にし、壕掘りなどを手伝っていたといいます。

それは沖縄戦の組織的戦闘が終わる前日、6月22日のこと。

完敏さんは、今の「琉風の碑」の場所、岩影に隠れていたところ、爆風に飛ばされて、命を落としました。

もう一つの沖縄戦 観測続けた気象職員たち

前村芳子さん「塔の前に爆弾が落ちて、爆風で飛ばされたみたい。喜瀬さんは、もう自分も体も動かない状態だったけれど、自分にもたれかかって、亡くなっている兄と、友だちを、岩の方に引っ張り出して、喜瀬さんが最後に葬ったそうです」

勉強のため、一人島を離れたもののわずか15歳で戦場に送られ、亡くなった息子。両親のショックは大きかったと言います。

前村芳子さん「親としては、それが誇りだったと思うんです。頑張っているんだなと。やっぱり敏ちゃんは、お国のためにも、頑張っていたんだと話していました。そういう気持ちでいたと思うんですよ。でもなくなったって戦死したって聞いて、あの時の親のがしっかりしようというのは、本当に言葉に言い表せないくらいのものだったです。期待していただけにショックだったです。その記憶は未だに残っていますね。未だに。忘れられないです。戦争がなければ、こういうことはなかったのにと。一番4男ですので、兄3人は、帰って来たのに、一番近くの那覇にいるこの完敏が亡くなったということ、親たちもすごく残念がっていたし、悲しがっていました。」

鉄の暴風が吹き荒れる中、命がけで気象観測を続けた気象職員たち。もう一つの沖縄戦の姿が見えてきました。