シリーズ戦後70年、遠ざかる記憶、近づく足音です。これまで様々な人々の戦争体験を伝えてきましたが、きょうは芸能の世界で生きた女優の視点から沖縄戦を考えます

「あんまーの遺言だとうむてぃ肝にすみてぃちちくうぃりよー」

アンマー役で迫真の演技を見せるのは、沖縄芝居のベテラン女優瀬名波孝子さん。戦前から子役として舞台に立ち続け芸能生活70年を超える大ベテランです。

瀬名波さんは、歌劇・史劇・人情劇などあらゆるジャンルを演じ存在感ある女優としてたくさんの人を魅了してきました。そんな瀬名波さんは70年前は、戦場をさまよっていました。

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瀬名波孝子さん「山の中でも大変だったよ。軍人でありながら同じ軍人の人を刺してねサトウキビを食べながらちゃっけん抜かれて血だらけに死んでいる人も沖縄の兵隊さんなの。」

12歳の少女が目にしたのは、沖縄戦の地獄。芝居のことなど考える余裕もなく死を覚悟していました。しかし瀬名波さんには、その間も肌身離さず持っていたものがありました。四つ竹です。

瀬名波孝子さん「救急袋に入れて空襲なたぐとぅうぬままーむちゃーんかい壕んかいいちゃるばーい違うよなー昔の房はけーたーしてーくまあつさーしーかりかりぐわぁし」

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瀬名波孝子さん「私の宿命だと思っているんだけどさ戦争ではいつしんでもいいという気持ちはあったんだけど生きていて芝居を残すということは私の宿命かもしれないね。」

芸能が宿命だと語る瀬名波さんは、戦前は、戦意高揚のため舞踊や芝居に子役として出演日本兵を慰問することもありました。

瀬名波孝子さん「昭和17・18年は、大東亜戦争の時が来たあら決戦だー決戦だーダンスみいたな日の丸の旗を持って踊ったりして。」

沖縄戦で捕虜になった瀬名波さんは、あるアメリカ兵に優しくされたといいます。6月のある日そのアメリカ兵に連れられ参加した演奏会。それは、南部に出撃する兵士たちの壮行会でした。

瀬名波孝子さん「自分の髪の毛を十字に巻いて持っておきなさいってこれ何かねlって思ったら自分の髪の毛。自分なんかが那覇ボンボン死んだらこれ骨探して頂戴っていうわけ。」

その後、このアメリカ兵ちのの消息は、分かっていません。

瀬名波孝子さん「人間というのは、人が変わっても同じ心はもっているんだって自分は、考えた。」

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戦後、今度は、戦争を生き延びてきた人たちの心の傷を芸で癒し勇気づけました。

瀬名波孝子さん「見に来る人がいっぱいいたわけ。自分たちも哀れしているし、芝居も哀れだったんだねって感じで泣く人も多くて。雨にぬれていてもカッパかぶってもハンカチかぶっても動かない。それくらい真剣になっている。」

観客も演者も戦時中の苦しみを思い出し涙することも・・・

瀬名波孝子さん「その時泣いてからに、鼻もたれて歌も歌えなくてだからその時に楽屋に入ってきてから先輩に怒られてね。なんで役者が泣くねーって言われたわけ。泣いたら声も出なくてセリフも言えないじゃないか。」

戦前戦中戦後と瀬名波さんの側には、常に芸能がありました。今も現役の女優でありながら若い後輩たちの指導にも力を入れています。

玉城敦子さん「若い人たちが引き継いでくれないとウチナー芝居が消えたら困るから頑張ってよーって。そういう先生の気持ちのはいった愛情のある手作りの帯を皆さんに差し上げるの。」

戦争がないからこそウチナー芝居が演じられるこの思いを胸に舞台に立ち続けます。

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瀬名波孝子さん「戦世うわてぃみるく世になたれたげにうじなてぃる助け合いながら生きていこうやという気持ちであるわけ。だからみんなに言う。」

こちらには、瀬名波さんが肌身離さず持ち歩いた貴重な四つ竹をお借りしてきましたです。この四つ竹が瀬名波さんを芸能の道に今一度目覚めさせるきっかけになったということです。平和だからこそ歌や芝居が楽しめるということを私たちはしっかり心に留めたいと思います。