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先月末。与那原町の街中に駅が誕生しました。しかし、今そこに鉄道は走っていません。70年前、止まったままの鉄道。今からおよそ100年前の1914年12月、沖縄で初の県営鉄道として与那原・那覇間が開業。

その後、糸満線・嘉手納線が誕生し、物資を始め通勤や通学の人たちの足として活躍します。当時鉄筋コンクリート作りの建物は珍しく、モダンな建築物として注目を浴びていました。

駅舎のすぐ近くに住んでいた、上原初さんも軽便鉄道で念願の一高女へ通った1人。

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上原初さん「歌なんかさものすごく大好きちゃんと風景が思い浮かべる」

しかし、上原さんが入学した頃には太平洋戦争がはじまり、軽便鉄道も軍事物資や兵士の輸送を優先する軍用化が進んでいました。

上原初さん「4年生になると陣地構築と言って飛行場や識名園の後ろ側に行ったり学徒動員みたいに連れて行かれる」

上原さんは、当時与那原の子ども達を疎開させていた津嘉山先生の助言で、1944年10月、学童疎開船の世話人として大阪へ疎開します。そして、終戦後、沖縄に戻った上原さんは、同級生のほとんどが学徒動員で犠牲になったことを聞きました。

上原初さん「友達もみんな玉砕死んでいる。帰ってきてからは何といって挨拶したらいいか分からない。どうしようかどうしようかとっても責めるみんな戦死しているのにこうして生きて帰ってきている」

「自分だけ生き残ってしまった」ひめゆりの塔に行っては自分を責め続けた上原さん。しばらくは戦争当時の話をすることはありませんでした。

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出発進行!戦後70年の今年、当時と同じ場所に「与那原駅舎」が復元されました。その裏に9本の柱があります。

上江洲安昌さん「戦争でめちゃくちゃにやられた建物が1975年までは役場として使われた私もここで働いていた。」

戦後、再生された駅舎は役場として使用されます。そこで働いていた上江洲安昌さん。実は上原さんの教え子でもあります。上原さん達からたびたび軽便鉄道の話を聞いていた上江洲さん。数年前、この場所は都市計画によって道路にされる予定でした。

上江洲安昌さん「それでは歴史が消えるし駅があったという話にしたくなくてならば残せるものは残そうと戦争の傷、弾の跡もあったので」

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上江洲さんは与那原駅舎復活の運営委員として、駅を知る人から子ども達までが歴史を語り知る場所にしたいと活動してきたと言います。

上江洲安昌さん「私も戦後生まれ、上原先生とか戦前鉄道に乗った人もたくさんいてこの建物が戦前と破壊された戦後とのつなぎとして今があるんだと。」

軽便鉄道で青春を過ごした女学生、その思いを受け継ぎ駅舎復元に尽力した教え子、残された70年前の記憶は私たち戦争を知らない世代に向けて平和を発信する始発駅になっているのかもしれません。

当時軽便鉄道を利用していた人「生きていてよかったこういうの見られて」

訪れた親子(母)「戦争でこんなこともあったんだねっていう勉強にもなるかなと」(子)「戦争やんなきゃ線路がなくならなかったかも。電車がずっとあってほしかった。」