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今年、復帰から40年の節目を迎える沖縄。今でも残るアメリカ軍基地や政治の問題。その問題の原点は、復帰前の時代を見つめると見えてくるものがあります。きょうは、ごらんの三つの旗をめぐって当時の人々が巻き込まれた事件や祖国復帰運動への思いをお伝えします。

復帰の日、1972年5月15日深夜0時、日付が変わり沖縄県が誕生したその瞬間、那覇の港に停泊していた救難艇「おきなわ」ではそれまで掲げられていたひとつの旗が降ろされ、変わって、祖国復帰を告げる「日の丸」の旗と海上保安庁の旗が揚げられました。

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降ろされたひとつの旗。その旗が県の公文書館に保存されていました。黄色と青の二色の旗。これが沖縄がアメリカに統治されていた時代船に掲げられた「琉球船舶旗」です。

国際法では、公海を航行する船舶は、自らの身分を証明する国旗を掲げることが定められています。しかし、当時占領下の沖縄は、日本でも、ましてやアメリカでもない不安定な状況に置かれていました。そこで当時の民政府が布令として船舶に掲揚を義務付けたのが「琉球船舶旗」だったのです。

琉球海運・比嘉栄仁会長「我々自体それ(琉球船舶旗)を掲げても、国際的に通用するということは考えたこともありません」

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国際信号旗とは、航行の際に船同士で旗を掲げ、意思の疎通を図るという世界共通の旗ですが、琉球船舶旗は国際信号旗のD旗を切り取っただけのものでした。

この旗が悲劇を生みます。

今から50年前の4月3日、インドネシアにあるモロタイ島の近くで、マグロ漁をしていた沖縄の船「第一球陽丸」がインドネシア海軍の銃撃を受け、1人が死亡。3人がケガをする事件が起きます。当時、第一球陽丸に通信士として乗っていた新里孟三さんは、今でも鮮明に記憶していました。

第一球陽丸元通信士・新里孟三さん「飛行機がたぶん、船員の方も見ていると思うんですよ。僕らも手を振った覚えがあります。手を振っているつもりだけど、国旗がないでしょ。だから向こうは怪しいと思って旋回して、2回目か3回目か憶えてませんけど、船尾のほうから(機銃で)バラバラバラっときたような感じですね」

この銃撃で当時26歳の大城重夫さんが銃弾を受けます。

新里孟三さん「苦しそうに、痛いものだから、壁を叩いたり、どこかを叩いたりしていたけど、僕らもどうしようもないわけです」

その後、重夫さんは手当する間もなく、船で亡くなりました。

大城さんの弟・幸太郎さん「スパイ船と間違われて撃たれた、銃撃されたというのは聞いた。(Q:旗は揚げていた?)だからその旗が通用しない旗さ。琉球の旗か、あれ」

重夫さんの弟で、当時15歳だった幸太郎さん。事件から50年目にして、初めてカメラの前で語りました。

幸太郎さん「(Q:お父さんお母さんの様子はどうでしたか?)もう悲しんで…もう泣くだけさ」

もし、日の丸の旗が揚がっていれば…。この事件をきっかけに日の丸掲揚を求める声が大きくなり、日の丸はやがて祖国復帰運動のシンボルとなっていきます。

元沖教組委員長・新垣仁英さん「私たちにとっては、憲法の下に行くんだという願い。日の丸にそれを見つけ出したと言ったほうが言いのか」

当時の沖縄県教職員組合では、日の丸を一括購入し、児童生徒を通し、各家庭に配布する掲揚運動を展開します。しかし、その動きにも変化があったと話すのは、元沖教組の委員長・新垣仁英さんです。

新垣仁英さん「復帰の内実が次第に明らかになってくる。高揚感よりは複雑な気持ちですよね」

復帰後もそのまま残る広大な基地や不平等な人権。沖教組はその後、シンボルとしていたはずの日の丸を排除する運動へと転換していったのです。

新垣仁英さん「当時の日本政府に対する不信。それが日の丸と一体となったと思います」

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沖縄戦終結から5年後の1950年、沖縄の未来に願いを込めた旗が作られていました。当時の沖縄民政府の初代知事、志喜屋孝信さんの時代に作られた「沖縄旗」です。

志喜屋孝信 赤道顕正会・久田友光会長「(志喜屋孝信)知事のウチナーンチュ対する思いが込められていると私は思いますね」

平和を表す青と自由を表す白、そして情熱の赤。さらに、青の部分には、沖縄の未来に希望を託した星が描かれています。

志喜屋さんの意思を受け継ぐ人々が旗を復刻しました。

志喜屋孝信 赤道顕正会・池原正一さん「(この旗には)沖縄の人たちを差別から開放したいというのがあったんじゃないかなと思ったりもしますね」

「琉球船舶旗」「沖縄旗」そして「日の丸」。復帰を境に、二つの旗は忘れられていきましたが、旗をめぐる矛盾や怒り、そして日の丸を渇望する声が渦巻く時代は、今の沖縄が抱える問題の原点ともなりました。

琉球海運・比嘉栄仁会長「我々の命、生命財産を保護してくれるというんですか。それの象徴的なものだと」

元沖教組委員長・新垣仁英さん「日の丸は今、統制のシンボル。支配のシンボルじゃないかと僕は思う」

大城幸太郎さん「これが元で、安心して漁業ができるさ、今…。それで良いことだと思うよ。そういうことがあったことは、忘れんでね。そういうことがあったことを…」

船乗りの人々からすれば「日の丸」はまさに命の担保でもあった。

そして沖教組など、復帰運動に加わった人々の多くが復帰後も変わらない現状への失望感から、日の丸が日本政府への裏切りの象徴とも受け取られたわけですよね。

一人の命が犠牲になった50年前の事件。亡くなった重夫さんのお母さんは、沖縄戦で一家全員を失って、ただ一人生き残っていただけに、事件の後は、一度も大城さんの自宅では日の丸の旗を揚げることはなかったそうです。