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「オキナワ1945〜島は戦場だった」拡大版です。1941年のきょう、太平洋戦争が勃発し、1945年にアメリカ軍は沖縄に上陸。島は戦場となりました。戦火を生き延びた人たちが65年まえ、復興にむけて毎日を生きていた一方、その当時、疎開先で人の優しさを実感したという人もいます。玉城・奥武島の大城ミヨさん、当時12歳でした。

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ピンク色のワンピースを着た、大城ミヨさん。この洋服にはとても深い思い入れがあります。

大城ミヨさん「向こうから沢山お土産も送ってくれるし、色々美和ちゃんはもう亡くなったんですけど、お嫁さんのヒロコさんが本当に良くしてくれるのでとっても幸せです。」

大城さんは1944年から3年間、熊本で疎開生活を送りました。写真のワンピースは疎開先で仲良くなった友人、佐藤美和さんからプレゼントされたもの。佐藤さんは亡くなりましたが佐藤さんの息子のお嫁さんとの交流が続いています。多くの親類や友人を亡くした辛い戦争。しかし、大城さんには救いもありました。疎開先の熊本で、大城さんは人の温かさに触れその交流は今でも続いているといいます。

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大城ミヨさん「沖縄から疎開するときは3ヶ月っていうそのあれ(決まり)で,行ったんですが、向こうにいたのが3年だったので,それでもう、お友達も沢山できたし、沖縄の話も聞かせて。」

優しかったのは友達だけではありませんでした。食糧難の当時にもかかわらず、育ち盛りの大城さんに疎開先だったお寺の家族をはじめ地域の人たちは食料を分けてくれました。

大城ミヨさん「お供え物ですね、持ってきたときも私達に分けてくれよったんですよ。地域の方々がお野菜を持ってきてくれ、あるいはサトイモを持ってくる。それで本当に助かりましてね。」

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しかし大城さんは最初、役場から勧められた疎開を嫌がったそうです。知らない土地に行くことがいやで船に乗る前には気分が悪くなり、倒れてしまったというほどでした。

大城ミヨさん「もうお家に帰したほうが良いんじゃないのということだったんですけれども,本土のほうに送ってあるし、だからぜひとも連れて行かないといけないよということで」

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1944年9月、大城さんは半ば強引に疎開船に乗せられました。大城ミヨさん「私達(船の)底の方だったので、乗った人も相当いましたので、座っても頭が着くくらい。本当にぎゅうぎゅうで大変でした。」

やっとのことで熊本に渡った大城さんは、沖縄では体験したことのない寒さに驚きました。大城ミヨさん「もう本当に寒くて寒くてですね。もう本当にこんな寒さって初めてだなぁって,向こう行って本当に苦労しました。雪の降る日、私は雨靴も無くて、靴を履いてね、足首を脱臼したり。骨折したり、もう本当に苦労しました。そして霜焼け、霜ばれもするし、手、手なんかは。」

地域の人たちが食料を分けてくれたとはいえ、栄養は十分ではなかったために、風邪を引いたり捻挫や骨折もしました。いつもお腹をすかせていた大城さんに、疎開先のお寺の家族のお姉さんはおやつを作ってくれたそうです。

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大城ミヨさん「メリケンと一緒にですね、かぼちゃをすり潰してですね、一緒に団子を作ったりしてですね、作ってくれて、楽しかったです。」

その後沖縄に帰った大城さんは周りから疎開先での辛い経験や訃報を聞き、恵まれていた自分の疎開生活を実感します。大城ミヨさん「私の友達はですね、フィリピンから引き上げてきたんですけれどもね一人は栄養失調で亡くなってですね、向こうで。2人は学校に行かされずに奉公にいったんだよという話も聞いたんです」

大城ミヨさん「本当に地域の人たちは温かくてですね、恵まれて本当に幸せでした。本当にもうね兄弟のようにしてね。」

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戦争に飲み込まれ、見知らぬ土地への疎開を強いられた、当時12歳の少女。憎むべき戦争の傷跡も深くのこりましたが大城さんは65年経った今も、人の心の温かさが忘れられないといいます。