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「1945島は戦場だった」きょうは拡大版リポートです。65年前の3月10日東京を襲った大空襲の被災者の一人が、今、いけばなという生きがいを見出し沖縄で力強く生きています。生け花を通して国内外の人々と交流を続ける女性が35年前沖縄戦で腕を失った女性に出会いました。

恵子さん秀子さん「(玉那覇さん片腕から)それは高すぎる、高い、高い」

不自由な身体で花の活けこみを行う玉那覇秀子さんそしてその指導にあたるのはラビンス恵子さんです。65年前、2人は別の場所で戦災に合いました。高層ビルが立ち並ぶ東京都心65年前のきょう、この東京に壊滅的な被害を及ぼしたのが… 東京大空襲です。

攻撃の第1弾が投下されたのは3月10日になったばかりの午前0時8分爆撃は2時間余り、そのあとも火の勢いは収まることを知らず明け方の8時過ぎまで東京東部を焼き尽くしました。死者はおよそ9万人その数の多さに遺体は戦場と同じように乱暴に扱われ公園や寺院などに土葬されたといいます。

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絵をかきながら。恵子さん「もうボーボー、こんな描くよりしょうがないもんね」「普通の一般の人たちが炭みたいに道路にごろごろころがっているのは見た」

北海道出身の恵子さんは1941年に労働動員として東京に徴用され1945年、東京大空襲を経験します。命からがら北海道に戻った恵子さんが生きがいを見出したものは華道の道。そしてその頃に出会ったアメリカ人の夫:エドワード・ラビンスさん。北海道の軍事病院の医師をしていた夫の沖縄への転勤が沖縄永住のきっかけです。

華展/恵子さん「まさかアメリカの人と結婚するとは思わなかった」「そうですね、あまりのやさしさに」周りの反対を押し切っての結婚でした。40年前に夫は亡くなりましたが、今でも優しかった夫を愛しています。

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秀子さん「私は4月6日に捕虜にとられている、前の日にけがをしている。そして北谷の浜で手を切られたわけよ」一方の秀子さんは沖縄に上陸したアメリカ軍の銃撃を受け右腕を切断しました。

それでも戦後は父が戦死し、1人で家計を支える母を助けるためアメリカ基地内で働き続けました。65年前に戦争を体験した恵子さんと秀子さんそんな2人を結びつけたのは生け花でした。

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沖縄に渡り、生け花を通して日本や沖縄の文化を伝える恵子さん。生け花教室の外国人生徒「アメリカ人でも日本人でもお互いに交流をもつことを奨励していてそれが友情につながり、すごくいい雰囲気でクラスをうけているんです、それは全て先生の人柄によるものだと考えています」

恵子さん「人の心を慰めるのは花だから、人にやさしさを与えるのも花だし」何事にもとらわれず多くの人に花の良さを伝えていきたい。2人が出会ったのは35年前、生け花の先生と生徒としてでした。戦争から30年の月日が経っていました

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秀子さん「あの先生が教えているところを最初見るだけとおもっていたけど、(お花をいけることが)できたからずっと勉強してます」恵子さん「玉那覇さんが自分の腕がないことを気にしていたんですけど、何でもできるよと、やろうと思えば何でもできる、少しでもやってみたらということで」

恵子さん秀子さん「この方はなるべく自分でおいけになるようにして、手が悪いんですけど、私はあんまり手伝わないで」

他の生徒となんら変わらない指導が続きます。「テーマは、スプリング、春」木苺やグラジオラスなど春の草花を使った明るい作品が出来上がりました。秀子さんご主人祐昭さん「花を習い始めてからいつもうちに花があるんですよ、仕事から帰ってきてこの花を見ると楽しいし」

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花が玉那覇さんの家庭を明るくしています。恵子さん秀子さん「(恵子さん)戦争のときっていうのはみんなひどい思いをして現在ここにいたっているんだけど、戦争はいやだね、(玉那覇さん)ほんとにね」「(秀子さん)お花のおかげで今はどこもかも出かけて、とっても楽しい暮らしをしている」「(恵子さん)お花を通じて伝えたいことは、日本の美しい四季を、四季の花を生けながら、四季の美しさ、やさしさ、そういうのを伝えていきたいです」「(レモンの木)とてもいいにおいがするんですね、(恵子さん)本当だ」

すべてを焼き尽くす戦争を2度と起こすまい願いは草花を愛でる平和な日々が続くこと2人の思いは一つです。