65年前のこのころ、収容所や病院などでは生死もわからなかった家族との再会のドラマがありました。 島袋文子さん「捕虜にされた時の怖かったこと。見たら赤毛の青い目の身長の高いのがいっぱいいて」 6月、南部…
すべてが不自由だった戦後の暮らし。住民達はアメリカ軍が投下した爆弾の破片など、使えるものはすべて生活に利用しました。 これは、アメリカ軍が火炎放射に使用したとみられるボンベを鐘として再利用していたこと…
65年前の10月、茶どころで知られるうるま市石川・山城区の住民が収容所から地元へ帰る準備を始めていました。 戦前からお茶の生産地として知られるうるま市石川の山城区。1935年に住民の共同作業で始まった…
65年前のこのころ、収容所では住民たちがアメリカ軍の作業をして生活物資を得る軍作業が始まりました。 本島上陸以降、アメリカ軍は沖縄守備軍と闘いながら、次々と住民を収容所へ送り込みました。琉球大学の川平…
65年前のこのころ、収容所の住民はアメリカ軍からの配給で命をつないでいました。 配給所で列を作る住民たち。65年前のこのころ、各地に設置された収容所の住民には、アメリカ軍から必要最小限の食糧が与えられ…
南部で母を亡くし父親と生き別れた少年は収容所で軍作業に従事していました。 玉那覇盛章さんは南部の激戦地を逃げ惑った末、海岸にいるところを捕虜として連行されました。父とは別々の収容所に連行され、民間人だ…
戦争で多くの人が家を失いましたが、その住宅不足を解消しようと考案された仮設住宅が次々と建設されました。 戦争ですべてを焼かれた住民たちは収容所に集められ、窮屈なテント生活を送っていました。 そんな状況…
65年前のきょう、日本は連合国との「降伏文書」に署名し、正式に連合国に降伏しました。一方沖縄では、沖縄諮詢会を中心に独自の統治に動き出していました。 降伏文書への署名は、東京湾の海上、アメリカ軍の戦艦…
「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。 慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属し…
沖縄戦が始まってすぐにアメリカ軍の収容所が置かれた石川市。8月には今の県立博物館の前身「沖縄陳列館」が開館しました。 うるま市石川にあるこの古い建物は、戦後アメリカ軍によって作られた東恩名博物館の跡で…