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シリーズ「たどる記憶・つなぐ平和」です。沖縄戦の地上戦での分かれ目となった日本軍の南部撤退以降の経緯を振り返ります。

首里に司令部を構えていた日本軍は、1945年の5月下旬、南部・喜屋武半島に撤退し多くの住民を巻き込む結果となりました。

2010年、QABが放送した年間企画「オキナワ1945島は戦場だった」を一部再構成してお送りします。

翁長良義さん・2010年「僕の配達区域の中に偉い人がいたわけよ。この人が帰るときに門で会うとき、たくさん勲章があって触らせてもらっていた」

沖縄戦当時13歳だった、翁長良義さん。首里で新聞配達をしていた少年時代の翁長さんと接していた人物こそ、牛島満中将。沖縄戦で日本軍を指揮した、第32軍の司令官です。本島中部に上陸したアメリカ軍が徐々に首里に迫る中、5月22日、牛島は南部・喜屋武半島への撤退を判断。本島南部には戦火を逃れようと、およそ10万人の住民がすでに避難していました。

たどる記憶つなぐ平和#20「日本軍・南部撤退後の沖縄戦/1945年5~6月の様子/組織的戦闘終結も続く地獄」

南部に撤退した日本軍とアメリカ軍の組織的戦闘は、ひと月続くことになりますが、その戦場は軍民混在と化し、犠牲はさらに増えていくことになります。

元ずいせん学徒隊・仲西由紀子さん「死ぬのはあたりまえ」「一発で死にたい、手が切れて、足が切れて、あんな苦しい思いで死にたくない」「あたるなら一発で当たってほしいという願いだけ」「私たちが移動するのは」

南を目指したのは、日本兵だけではありませんでした。軍に動員された学徒たちも戦闘を続けることを強いられたのです。日本軍を追って首里を突破したアメリカ軍は6月3日、知念半島と日本軍の残る南部地域を分断。南への進軍を続けていました。

たどる記憶つなぐ平和#20「日本軍・南部撤退後の沖縄戦/1945年5~6月の様子/組織的戦闘終結も続く地獄」

翁長安子さん・2010年当時「足のかかとをやられた方と、それから肩に弾の当たった二人」「うじは私がかきだしてあげてもどんどん湧いてくる」「その痛みに耐えながら、3人で目的地を」

2010年の取材で、そう語っていた翁長安子さん、80歳。首里の住職が率いた永岡隊で看護要員として従軍しました。首里にいた隊は、アメリカ軍の攻撃を受けてバラバラになりました。翁長さんは銃弾を背中に受けながらも八重瀬の野戦病院や糸満市の糸洲の壕と逃れる中で、喜屋武の海岸近くの壕へと向かっていきます。

翁長安子さん・2010年当時「もうほんとに恐ろしいほどの道端の人、死体」「自分が背負っている子どもの首がないのもわからずにおんぶしているお母さんもいるし」

たどる記憶つなぐ平和#20「日本軍・南部撤退後の沖縄戦/1945年5~6月の様子/組織的戦闘終結も続く地獄」

海岸の近くの壕にたどり着いた後、ある時井戸に水を汲みに行ったといいます。

翁長安子さん・2010年当時「隣の看護婦さんの集団の中から、私たちも一緒に行きますよということで」「私と向こうから二人、表の広場に出たとたん直撃弾が近くに落ちた」「それで二人は後ろに爆風でこうやられて」「私は前にのめったんです」「そしたら二人は即死」

取材からおよそ15年が経ったきのう。糸満市の平和祈念資料館。沖縄を訪問していた天皇・皇后両陛下に戦争体験を語る翁長さんの姿がありました。

たどる記憶つなぐ平和#20「日本軍・南部撤退後の沖縄戦/1945年5~6月の様子/組織的戦闘終結も続く地獄」

翁長安子さん「戦後処理が遅かったと。国は」「沖縄県民の手によって、戦後処理、慰霊をやりましたので」「今後このようなことが、二度と戦争が起こらないように」「平和な国づくりにご協力くださいと申し上げました」「そしたら向こうからは、うんうんとうなづいてはいらっしゃいましたが」「お言葉はありませんでした」

住民や学徒が戦場をさまよっていた6月17日ごろ、アメリカ軍は摩文仁の日本軍司令部壕まで前進していました。アメリカ軍のバックナー司令官は降伏を勧告する書簡を日本軍に出しますが、牛島は一笑し捨てたと伝えられています。

たどる記憶つなぐ平和#20「日本軍・南部撤退後の沖縄戦/1945年5~6月の様子/組織的戦闘終結も続く地獄」

「今や戦線錯綜し、予の指揮は不可能となれり」「諸子は祖国のために最後まで敢闘せよ」「生きて虜囚の辱めをうけることなく、悠久の大義に生くべし」

6月18日に牛島が出した命令は「戦い抜くこと」でした。そして6月23日、牛島が自決したとされる日です。固く閉ざされた摩文仁の総司令部壕での司令官の自決。日米の組織的な戦闘は終結したとされますが、この日以降もアメリカ軍の攻撃、そして日本軍による虐殺で住民の犠牲が止まることはありませんでした。

牛島の孫の貞満さん。戦後65年のころにはすでに沖縄に通い優しい人物と思われていた祖父が、なぜこのような命令を出したのか考えていました。

牛島貞満さん・2010年「やはり天皇のほうを向いていたんじゃないかなと」「最終的にはいくら人柄が優しくても」「天皇に忠誠を尽くすのが祖父の生き方だったと思う」「そうするとはやり県民のほうは向いていなかったということだと思う」

たどる記憶つなぐ平和#20「日本軍・南部撤退後の沖縄戦/1945年5~6月の様子/組織的戦闘終結も続く地獄」

牛島が自決を前に詠んだとされる辞世の句。その句をウェブに掲載するのは、那覇駐屯地の陸上自衛隊第15旅団。去年、一度掲載を取りやめたものの、今年に入って掲載を再開しています。

中谷防衛大臣「いろいろ考えはありますけれども」「私はこの掲示におきまして、二度とあのようなことが起こらないように」「平和を願っている印象が強いと思っている」

中谷防衛大臣は4月、この句を正当化する発言をし波紋を呼びました。

大臣が言う「平和」とは、どのようなことをさすのでしょうか。

たどる記憶つなぐ平和#20「日本軍・南部撤退後の沖縄戦/1945年5~6月の様子/組織的戦闘終結も続く地獄」

決定権のある人物の人柄など、戦争の全体像を見ずに一部分だけを切り取って判断する姿勢は、ひめゆりの塔を「歴史の書き換え」と発言した自民党の西田参院議員の発言につながるものがあります。

一方で、沖縄を訪れていた天皇皇后両陛下が、きのう発表された「ご感想」の中で「辛い体験を言葉にされる、戦争体験者や遺族の方々の勇気にも頭が下がります」と述べられています。

戦後80年を迎えて、私たちができることは少しでも多くの体験者の方々に話を聞いて記録していくことだと改めて考えています。