ここからは、沖縄の「今」を見つめる「イマジンおきなわ」です。第二次世界大戦末期、日米の激しい地上戦が行われた沖縄。戦後80年以上が経ち、焦土と化した島には住宅やビルなどが立ち並び、沖縄戦に触れる機会が少なくなっています。
その一方で、激戦地、本島南部では、今でも遺骨や遺留品が見つかっていて、今回、あるガマで大学名の書かれたボタンが発見されました。
このガマにいた日本軍は、アメリカ軍の攻撃で全滅したとされていて「見つかった遺留品を遺族のもとへ」と持ち主を探し続ける遺骨収集ボランティアを取材しました。
糸満市福地、草木をかき分け茂みの中を進んでいくと、大きな空洞が現れます。ことし2月、このガマのなかから遺留品が見つかりました。
浜田律子さん「ボタンはこの辺からです、この辺からでました」
浜田哲二さん「これにはね『大学』と書いてあってですね」「左右に『明治』と書いてあるんですよ」
沖縄戦から81年、ボタンの裏側には黒く焼け焦げた跡が残っています。
浜田哲二さん「もしかしたらね、学徒であった明治の大学生が誇りをね、自分のその誇りをね、持ち続けたいという思いで戦場にまで持ってこられたのではないかな」
土を掘り進めながら、持ち主の手がかりを探し続けます。ガマで遺骨収集を行っているのは20年以上、沖縄で活動を続けている浜田哲二さんと律子さん夫婦。薄暗いガマのなか、手元のライトを頼りに遺骨がないか丁寧に調べます。
浜田哲二さん「上かな下かな」浜田律子さん「それはわからないけど奥歯ですね」
このガマでは先日、戦没者とみられる遺骨が見つかりました。
浜田哲二さん「こちらのほうがね下肢、たぶんね足の骨だと思うんですよ」「頭の骨がここにあるわけです、頭の骨が見えてるのが上あごですね、上あごに歯がついている」「兵士が直撃弾をうけて、こんな風にバラバラになっているんですよ、頭の骨がここにあって、足の骨がここにあるというのは、これはね体がバラバラになっている証ですね」
1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。福地集落の住民はこのガマに避難しました。しかし、アメリカ軍の攻撃が激しさを増した6月中旬、日本兵がガマを占領し、住民を追い出します。沖縄戦の証言を集めた糸満市史には、当時の状況が生々しくつづられています。
糸満市史 証言 酒屋カメさん 大正6年生「ガマの近くで艦砲の落ちた大きな穴を見ていると、弾がボンボン落ちてきて『きょう、私は死ぬためにここに来たのか』と思った」「夜中、兵隊たちが来て、ここは軍隊が使うので出るように言われたので、わたしがフサ子をおんぶし、母が次男をおんぶして山を越え、束辺名部落の前にある、古墓に入った」「でも、そこにも兵隊が来て、私たちはまた追い出された」
住民を追い出した日本兵は、このガマに立てこもりますが、アメリカ軍による激しい攻撃をうけ全滅。復帰直後に行われた調査で日本兵とみられる多くの遺骨が見つかり収骨されました。あれからおよそ50年、浜田さんらの活動で「明治大学」と刻まれたボタンが見つかりました。
浜田哲二さん「多分、その岩陰から隠れてアメリカ兵を見ていたんじゃないかと」「この岩陰に隠れていたんじゃないかと、隠れてね、入口から侵入してくるアメリカ兵を見ていたんじゃないかと、だけど爆雷投げられたら、この距離ですから、ひとたまりもないですよね。もうその最初の攻撃でなくなったんじゃないかと思います」
また、このガマからは明治大学のボタンのほか、戦前に県内に存在していた私立・開南中学校の校章も発見されています。
浜田哲二さん「明治大学のボタンはここからですよね、開南中学校の帽章は一番奥から出るんですよね」「やはりこれはね、あくまでも憶測ですけど、学徒で戦えることもできないから、だから『君は一番奥にいろ』という風になったんじゃないのかなと思うんですよね」「やはり歩兵としての訓練を受けて戦える人間は、こういう形で壕口に向かって敵を迎え撃ってきたんじゃないのかなと思うんですよね」
遺骨や遺留品を遺族のもとへ返したい、そう願い、活動を続ける浜田さん夫妻のそばには、地元の高校生の姿があります。
浜田律子さん「こういうのが出たら、後輩とかができたら、教えてあげてほしい。これは鏡だよとか、覚えといたら次からでてきたらわかるさ」
佐和田舞優さん「わかりました」
那覇高校2年の佐和田舞優さん、学校の平和学習の一環で浜田さんらの講和を聞いたことを機に、この活動に参加しています。
佐和田舞優さん「待ってる方には実際その、こういうのが落ちて、その付近で落ちてて、こういう生活をしてたんじゃないかなっていう、生活を感じてもらうことで実際生きた証ということを感じてほしいし、待ってた方に帰ってきたんだなっていう実感を湧かせるように、なんかもっと知っていきたいなって思います」
「生きた証」を遺族のもとへ、浜田さんたちは遺族へのDNA鑑定を呼びかけるほか、持ち主の手がかりを探し続けます。
浜田律子さん「遺族の方なんかが呼びかけに応じて出てきてくださって、いろいろお話を聞かせていただいたら、ちょっとでもね、解明できるんじゃないかなというふうには思っています」「20歳そこそこのね、若い希望を持った学生さんがいたんですよ。そう思ったら、本当にね、胸が苦しくなるし、返してあげたいな」
浜田哲二さん「忘れてほしくないんですよね」「81年経ってるんですけど、こうして出てくるっていうことはね、多分ね、これを持ってた人も忘れてほしくないと思ってると思うんですよね」「だからその人たちの思いはね、やっぱり無駄にしてあげたくないなとは思いますね」「そのために私たちもやってますんで、なんとかしたいね、なんとかしたいね」
ここからは、取材を続けている本村記者とお伝えします。本村さん、戦後81年たった今でも戦闘の激しかった本島南部では遺骨や遺留品が見つかっていると思いますが、今回、取材したガマの様子を教えてください。
本村記者「はい、今回、浜田さん夫妻らが遺骨収集を行っているガマは、地下に大きな空洞が広がり、3メートルほどの高さをはしごやロープを使って降りました。中に入って上を見上げると火炎放射によって、黒く焦げた跡が確認できました。また、足元には、住民が残したと思われる茶碗や水がめのかけらなども見つかり、激しい戦闘のなかで生活をしていた痕跡がありました」
このガマでは日本兵が住民を追い出し、アメリカ軍の攻撃を受けた場所でもありますよね。
本村記者「はい、住民の証言などでは、このガマにいた日本兵はアメリカ軍の攻撃を受け全滅したとされています。また、今回取材した現場では、新たに人の足の指の骨や歯が見つかっていて『声をあげられない戦没者』の無言の訴えを感じました」
VTRの中でもありましたが、遺留品として見つかった大学のボタン。今後、持ち主は見つかりそうなのでしょうか?
本村記者「はい、発見した『明治大学』のボタンについて、浜田さん夫妻らは先日、上京して大学関係者に話を聞き、情報収集をしています。また、浜田さんらは遺族にDNA鑑定を呼びかけていてます」
いまだ、土の中で眠る戦没者の声に耳を傾け続ける浜田さんらの、東京での活動の様子については後日、お伝えします。ここまで、本村記者とお伝えしました。
