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QABではこれまで、渡嘉敷島に島留学「わらびや」の子どもたちの様子をお伝えしてきました。先月、卒業式を終えた留学生たちが卒業式の翌日に向かった場所があります。留学生たちには島を離れる前に「どうしても」会いたい人がいたんです。その人は離島のたった1人の住民「島の守り人」でした。

酒井しいさん「前島行ったらすごいきれいなサンゴを見られたりカメとか見られるし、すごいいい経験をさせていただいてるなって」

藤原嶺人さん「前島行ってタイドプールで泳いだりとか飛び込みしたりとか」

バレラシッド愛凛七さん「島でのキャンプがすごい楽しくて本当はもっと行きたいねっていうのがあったけど」

栗田そら「(中村さんは)めっちゃ優しくてサーターアンダギーとかよくもらいました。2回行きました、また行きたいです2週間くらい(笑)」

「わらびや」の子どもたちが大好きなのは「前島」と、そこに住むひとりの男性。3月半ば。「わらびや」の子ども達がやって来たのは、渡嘉敷島の隣にある前島です。前島の自然が大好きなのはもちろんのこと、子ども達には会いたくてたまらない人がいたんです。

渡嘉敷島留学「わらびや」前島編

中村 文雄(なかむら・ぶんゆう)さん。この島でただひとりの住人です。中村さんは西原町にも家があって、この前島と「2拠点生活」を送っています。

中村文雄さん「毎月、月の半分はここでというようなそのパターンで毎月のように来ています。(Q.来る時は1人?)そうです、1人です。長いときは2カ月くらい、船の都合がつくと大体10日くらいですかね、行ったり来たりしていますね」

もともと父親が前島の出身だった中村さん。父親は、戦前南洋諸島のトラック島で暮らしていて、中村さんはそこで生まれました。

中村文雄さん「戦争が厳しくなってきたときに私は昭和13年生まれですけども、4歳の時に南洋トラック島から引揚げてきて、このふるさとで育った。14歳の中学1年のはじめ頃までいました。(Q.じゃあ今来ているわらびやの子たちと同じくらい)そうですね、はい。この島は今無人島なんです。無人島ですけども、ずっと昔から人が住んでいて、そしてこの部落には230人の人たちが生活していました。しかし、戦争が来て、戦争で逃げまわり、あるいは東海に出た人たちが戦争が終わって、ドッと帰還して一気に370人くらい人間が増えたのがきっかけで結局は器のない小さい島ではこれだけの人が暮らせない」

この島で終戦を迎えた中村さんは、14歳まで過ごしました。

中村文雄さん「当時は今と違って終戦後、どこも皆同じ焼け野原の生活の場所で暮らしてましたから、やっぱり裸一本でどこへ行っても暮らせるような状況でもありましたので。軍作業っていうのが那覇ではあって、知識も何もない、すぐ作業してすぐ日当もらえる、そういう生活できるのが幸いで(島を)出てしまったんですよ」

こうして昭和27(1962)年、島民全員が島を離れ、前島は無人島になりました。その後は東京の学校に進学し、那覇に戻って暮らしていた中村さん。

中村文雄さん「そのうちふるさとが恋しくなって、ふるさとが無人島になってしまったから何とかふるさと復興させなきゃいけないなっていうのがきっかけで早期退職をして」

52歳のとき早期退職したのをきっかけに、ふるさと前島に通い始めます。10年ほどかけて家の整備をし、今に至るまで前島と沖縄本島を行ったり来たりしながら30年ほど暮らしているのです。

渡嘉敷島留学「わらびや」前島編

中村文雄さん「(Q.島の暮らしは楽しいですか?)楽しいですね。私にとっては世界旅行するよりもまだまだ楽しいです。やっぱり空気が違う、そして身を癒してくれる緑が多いですからそれと、タクシーも何もないですし自転車もないから結局は足でどこへでも歩いて行く、一日中歩いてるっていうのが健康のもとになるかなって考えてます」

島にいる時は畑仕事をしたり、マイペースで暮らしている中村さん。おうちを案内してもらいました。

中村文雄さん「ガラクタ集めて、ここで生活してる。飲み水は那覇から運んでるんです、常に20リットルの水缶で5缶くらいはいつも保管してる」

電気はソーラーで発電したものをわずかに使っています。

中村文雄さん「(Q.これ全部ひとりで?)はい、ブロック900個、自分の船のあるころ来るたび100個ずつ運んで。海から引っ張って運んできて浜に揚げて、またこの護岸に揚げて」

立派に組まれた石垣は中村さんの祖父によるものだそう。

中村文雄さん「(祖父は)人の石垣も積んであげるくらい石垣積むの上手でしたよ」

代々の家を修繕しながら大事に暮らしています。そんな中村さんの元に「わらびや」の子ども達が通うようになったのは今から4年ほど前のこと。中村さんに島を案内してもらったのがきっかけでした。「わらびや」の女将、坂田明子(さかた・あきこ)さんによると。

渡嘉敷島留学「わらびや」前島編

坂田明子さん「中村さんの「前島を守る」という誇り、電気も水もない無人島で暮らすたくましさ、辛いことも含め色々な経験をしてきたからこその優しさ。そんな中村さんに子ども達を会わせたくて前島を訪れています」

わらびや坂田 竜二さん「キジムナーっていうほど子どもじゃないな(笑)拝所もあったんですか?」

中村文雄さん「小さいのがあった、水の神様。前の方にちょっとあるでしょ囲いが、そこがトイレ。堆肥つくる。それを担いでいってさつまいも作る肥やしに使っていた。いいように考えると無駄のない生活。わらびやさん達は離島で体験しながら学校を出るというようなことをやっているようで来てみたら何だ、こんなに大きな島だったのかっていう印象があったみたいです。こうして泳ぎもやりやすいし、潮干狩りもできるしで子ども達にとっては非常に喜べる場所ですから」

坂田明子さん「子ども達も中村さんの生き様からたくさんの事を学んでいます。中村さんも留学生含めて子ども達をとてもかわいがって下さり子ども達も中村さんが大好きで、お休みの時にはいつも前島に行きたいと言います」

中村文雄さん「私も今年は来るかな、何月に来るのかなってね本当に、自分の孫を待っているような気持ちでずっとこの子たちが来るのを楽しみにしています」

無人島になった前島に、たったひとりで戻ってきた中村さん。 

中村文雄さん「本腰入れてこの島で生活したいというのは私だけです」

この日、中村さんはいったん那覇に戻るため子ども達と一緒に船に乗って渡嘉敷島に寄りました。

中村文雄さん「ありがとうね、また遊びにいらっしゃいよ」

島の守り人、中村文雄さん。でも中村さんは一人ではありません。いつでも前島に思いを馳せ、中村さんに会いたいと願う皆がいる限り。